ハイエク全集(以下、全集と言う)の新版『自由の条件J』の解説で、訳者の一人古賀勝次郎氏はK・R・フーヴア『イデオロギーとしての経済学』を参照しながら、二十世紀の思想史を「一九四〇年代末までが『H・ラスキの時代』で、社会主義が支配的な思想であった、五〇年から八〇年頃までが『J・M・ケインズの時代』であって、混合経済とその背後にある社会民主主義が支配していた、そしてそれ以後『ハイエクの時代』になった」と要約している。
ハイエクとケインズの思想対決
一八九九年にケインズより一六歳若く生まれたハイエクは、六三歳で他界したケインズよりも三〇年近く長生きして一九九二年にフライブルグで息を引き取った。「思想の対決は、結局は長生きした思想家によって決着をつけられる」(間宮陽介『増補 ケインズとハイエク』ちくま学芸文庫、214ページ)。マクロ的な集計量である総需要と総雇用の関係に注目し雇用対策として財政政策や金融政策の有効性を説いたケインズと、マクロ的な統計間の数量関係は見かけに過ぎず、総需要政策は理論的に誤っていると批判したハイエクとの対決は、一九七〇年代前半の石油危機を契機としたスタグフレーションの発生によって、定説によればハイエクに軍配が挙がった。
また、ケインズ的な発想をベースに社会主義の浸透に対する防波堤として、西側の先進国で進められた「福祉国家」も、旧ソ連の崩壊により対抗的な政策意義を失っただけでなく、財政的にも成長率の低下や高齢化の進展を受けて各国で危機に陥っている。ハイエクは、一貫して恣意的な所得分配の権力を政府に集中する「福祉国家」は自由の条件に反し、全体主義に発展する危険も胚胎していると批判したが、その議論も正鵠を射ていたと言える。
「総需要を増大させることによって完全雇用を長続きさせることはできません・・需要刺激策はインフレを招きます・・その後はインフレを加速化させなければ雇用を維持することができなくなってしまうのです」(対談「あすを語る」、F.A.ハイエク『新自由主義とは何か』西山千明編、43ページ)というハイエクの需要政策批判や、平等や公平を目的に「政府が人びとの生活の細部に立ち入って干渉し、指図し、人びとの自由を次から次へと奪い、官僚国家を推進し、政府による統制をいろんな分野でいろんな形で増大させ」(同59ページ)てきたという福祉国家批判を見ると、景気(雇用)対策の面でも、また社会保障の面でもハイエクは徹底した政府嫌いの市場原理主義者に見える。
しかし、「政府VS市場」とか「計画VS自由」といった単純な構図から、ハイエクは市場や自由を支持したのではない。社会経済学者の松原隆一郎氏によれば、そうした「通俗的な理解」は「ほとんど無意味な対比である」(「ケインズとハイエクを分かつもの」『大航海』2007、No61、66ページ)。実際、全集の新版『個人主義と経済秩序』に収録されている論文「真の個人主義と偽りの個人主義」で、ハイエクは「自由義的もしくは個人主義的な政策は,本質的に長期的な政策でなければならない」(同書24ページ)と述べたうえで、ケインズの需要政策を「短期的な効果にのみ意をもちい、それを『長期的にはわれわれは皆死んでしまう』」という議論によって正当化」(同)したと理念的に丁寧な批判を行っており、最近のにわか「新自由主義者」のように、大した理由も示さずに最初からケインズ政策は無効だと一蹴しているのではない。ハイエクは長期的により大きな失業を生む恐れがあるケインズ政策を、短期的な効果だけに着目して採用してもよいのかと質したのである。
ハイエクは一九三〇年代の大不況時に、ケインズが政治的判断からインフレ的な需要政策を唱えたことには一定の理解を示しながら「特殊な状態に対する一つの解決策でしかなかったはずの自分の理論を、一般理論として主張した」(F.A.ハイエク『新自由主義とは何か』42ページ)のは「大きな誤り」だったと批判する。ただ、死後も「彼(ケインズ)の追随者によって」継続された「インフレ政策には、彼は決して賛成しなかっただろう」(同上192ページ)と言ってケインズを弁護する一面も見せる。「ケインズもインフレをひどく恐れていたから」(S.クレスゲ、L.ウェーナー編『ハイエク、ハイエクを語る』島津格訳、92ページ)であり、「戦時中には、もはやデフレではなくインフレが大きな脅威になっていた」(同)からだ。実際、ケインズは第二次世界大戦が終わり、亡くなる六週間前に「一九三〇年代には私の着想<インフレ政策>はひどく重要だったさ。インフレとたたかうという問題はなかったからね。しかしハイエク、任せておいてくれよ。私の着想はすでに時代遅れになった」(同上94ページ、<>内は筆者注)と語ったという。
自由の脅威と自生的な秩序
ハイエクがケインズ的な需要政策に異論を唱えた背景には、長期的なインフレの加速懸念だけではなく、たとえマクロ的な集計量である失業率の低下に成功しても、個々の労働市場で需給が改善したかどうかまではわからないという人間の知識に対する不信が根強くあった。マクロ的な統計は改善しても、個々の労働市場で需要超過と需要不足が混在していれば、政策を止めたとたんに超過分が消え、雇用は再び悪化に転ずる恐れがある。人間が得られる知識の量に限界があれば、政府であっても個々の市場の実態を正確に把握したり、人びとの間に分散する情報を完全に捉えたりすることは不可能だ。また、そうした実態の把握や情報の入手が不完全なかぎり、政策が成功したかどうかもわからない。どんなに優秀な官僚でも「一人の人間は社会全体の小さな一部分を知るだけでそれ以上のことはなしえない」(『個人主義と経済秩序』17ページ)。そうであれば、「気安く専門家に決定をまかせてしまったり、問題のわずかな一面だけしか詳しく知らないような専門家の意見をあまりにも無批判に受け入れてしまう」(『自由の条件J』11ページ)のは相手が政府であっても、否、権力をもった政府だからこそ、自由の脅威になるとハイエクは警告するのだ。
ハイエクが目指すのは「一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない・・・自由の状態」(『自由の条件J』21ページ)である。それは「すべての人々が、自分自身が持っている知識を、自分自身の目的のために使うことを許される」(『新自由主義とは何か』27ページ)社会でもある。ハイエクのいう真の個人主義に基づく自由と一般に言われている利己的な自由放任を分かつのは、法と秩序によって「人々がお互いの自由を侵害することから保護されている」(同上24ページ)か否かであり、多数決を隠れ蓑にした議会や政府が強制的な権力によって社会を統治しているか無政府状態かの違いではない。なお、ハイエクの法とは議会で定められた法ではなく、伝統や慣習に基づく自然法であり、秩序も強制的な命令によって人びとの行動を規制するルールではなく、人びとの自由な選択の結果として自然に生まれた自生的な秩序のことである。また、ハイエクが市場を評価する一方で裁量的な政策を批判するのは、市場がハイエクの理想とする真の自由を実現する空間である一方、裁量的な政策は市場の可能性を阻む障害に他ならないからだ。
意味のない完全市場や完全競争の想定
ハイエクは『個人主義と経済秩序』の収録論文を通して、標準的なミクロ経済学の教科書に登場する完全市場や完全競争の想定を、本来の市場で期待されている機能や競争の意味とは違うと厳しく批判する。完全競争の想定では、すべての商品の価格と需要および供給の関係は、すべての消費者および生産者に知られていると仮定したうえで、ある価格体系の下ですべての商品の需要と供給が一致する均衡が存在すると説明されるが、「これではいつ、どのようにしてこの均衡状態が生じるかについての説明に幾分も近づくことにはならない」(「経済学と知識」同書63ページ)とハイエクはいう。「人びとがどのような過程によって」(同)均衡状態に近づくために必要な知識を「獲得するのか」(同)という問題が本当は重要なのに、完全市場の想定では均衡に必要な知識を、予め人びとが持っていれば均衡は存在すると同義反復の説明が繰り返されているからだ。
同じことは完全競争にも言える。完全競争を理想的なモデルとするあまり「現実の競争がこのモデルと違っている度合いに応じて、現実の競争が望ましくないものであり、有害なものでさえあるとする見解がもたれている」(「競争の意味」同書129ページ)が、そうした見解「を正当化する根拠はほとんど存在しない」(同)。そう述べたうえで、ハイエクは「完全競争の理論が論じていることは『競争』という名にほとんど値しない」(同130ページ)と断罪する。ハイエクはE・R・ジョンソンの定義を引用し、競争が「他人も同時に獲得しようと努力しているものを、獲得しようと努力する行為である」(同134ページ)とすれば、競争に参加している企業がもっとも知りたい「財を生産することができる最低の費用」(同)とその生産技術に関する情報を、最初からすべての企業が知っていると想定するような「『完全競争』とは・・すべての競争的活動の不在を意味する」(同135ページ)と批判する。そもそも「競争が完全であるかどうかについて案じるよりは・・・競争があるのかどうかについて案じる」(同145ページ)ほうが、よほど意味がある。なぜなら本当に知りたい情報や知識を得るためには、競争が完全か否かよりも、競争が存在するか否かのほうがはるかに重要だからである。
変わった時代が求めた変わらぬ思想
理論経済学者の岩井克人氏は評論家の三浦雅士氏との対談(「現代思想としての経済学」『大航海』前掲、95ページ)で「ハイエクはその人間理解にもかかわらず、新古典派のほうに近い?」と聞かれ、「近いですね。ハイエクはふつうの新古典派よりもっと深いことをいくつも言っているのだけども、最終的に市場経済を信じているわけです。その働きに関しては、疑問を抱いちゃいけないと言うわけですね」と答えている。この岩井氏のハイエク評は、「学問する者の任務は・・・あくまでも物事の基本を、人々に明らかにすることです」(『新自由主義とは何か』11ページ)と言い切ったハイエクの経済学に対する基本的な思想を剔出しているように見える。というのは、ハイエクが短期的な市場経済の機能不全を前にしても、政府に救済策を求めなかったのは、真の個人主義に基づく自由こそ、時代を超えて守り続けるべき秩序であり、人びとから自由を奪う危険のある政府に頼るよりも、秩序が自生する市場経済を信じようとしたからだ。ここに目前の問題の解決に全力を尽くし、即効性のある処方箋を政府に求めて、死後三〇年近くにもわたり経済学の世界で光芒を放ち続けたケインズとの相違があったように思う。
「ところが七〇年代に入って福祉国家政策が行き詰まりを見せ、先進諸国が財政問題に苦しみ始めると・・・ハイエクの市場社会論はにぎにぎしく脚光を浴び・・・持て囃されるようになった」と経済思想家の猪木武徳氏は『個人主義と経済秩序』の新版で解説する。ここで「変わったのは時代であって、ハイエク当人ではない」(間宮陽介前掲書、104ページ)。ハイエクの変わらぬ思想を、変わったほうの時代が求めたのである。
ハイエクは誇りをもって自らを「新自由主義者」に任じていた。それは古い自由主義者のままでは、「変化を恐れ・・新しいものそれ自体にたいする臆病なほどの不信」(追論「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」『自由の条件L』197ページ)を「基本的な特性の一つ」(同)とする保守主義者と混同される危険があったからであり、ハイエクの目指す新しい「自由主義の立場は勇気と確信にもとづき、どのような結果が生じるかを予想できなくても、変化の方向を進むに任せる態度に基礎をおい」(同)たからだ。「とくに経済の分野においては市場の自己調整能力が・・・どのように働くかを誰も予言できないとしても、それが新しい状態に対して必要な調整を・・・もたらす」(同)と信じ、規制や保護で変化を抑えるより、市場の調整に信頼を置くほうが新自由主義者の態度としては相応しいというのだ。
既述したようにハイエクは決して政府VS市場といった二者択一の議論を展開したのではない。他人から強制されることなく、個人が自らの目的を実現するには、どのような秩序にしたがって行動すれば、社会に広く分散している知識や情報を効率よく利用し目的に近づくことができるかと問うたのである。この答えはハイエクの著書にあるはずだ。幸い、一九八六年以来、二一年ぶりに昨年七月から公刊が始まった新版の全集には新しい解説が付され、間宮氏が「晦渋」と評した「ハイエクの英語」も読みやすい日本語に訳されている。チャレンジ精神の旺盛な読者はぜひともこの機会に全集を紐解き、歴史に風化されない深遠な思想に触れてほしい。
(コラム)「政府で仕事をした経済学者は堕落する」
小泉政権下で構造改革の舵取りをした竹中平蔵氏は『中央公論』の十一月号で、政治学者の山口二郎氏と「新自由主義か社会民主主義か」というテーマで討論するなかで、「私のどこが新自由主義者なのか」と言って、「新自由主義」のラベルが貼られることを強く拒否した。新自由主義者として市場を信じたハイエクとは違い、竹中氏は改革を進めるために市場を利用したに過ぎないのだろうか。竹中氏に限らず、新自由主義者のラベルを嫌う経済学者やエコノミストは、口を揃えて「私は市場が万能だとは思っていない」と反論する。しかし、ハイエクは市場より、人間が万能だとは思っていなかった。だから、政府を介して万能ではない少数の人間に行動を規制されるよりも、市場を通して可能な限り多くの人間と知識を交換して、自由に行動するほうが望ましいと主張したのだ。ハイエクは『ハイエク、ハイエクを語る』で「私の理論では、政府で仕事をした経済学者はみんな、政府で仕事をする結果として堕落する」と語った。なぜなら「経済学者ではなく、政治家になってしまう」からだという。もっとも、最初から政治的な経済学者であるなら、それも関係のない話である。
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