市場と政府 双方に限界 人と人の繋がりで克服
人びとの物質的な欲求(物欲)を満たし、経済成長を実現するうえで、資本主義をエンジンにした市場メカニズムが優れていることはマルクスも認めていた。ただ、豊かさと所得の関係を分析すると、人間の物欲は1人あたり国内総生産(GDP)が1万ドルに達するあたりで飽和し始めるという。
日本では高度成長期が終わった1970年代後半ごろの時期であり、政府の世論調査で人と人の繋がりを求める「心の豊かさ」を重視する国民の割合が、物欲を満たす「物の豊かさ」を上回り始めた時期でもある。それにもかかわらず、いまだに「心の豊かさ」が実現されないのはなぜだろうか。
公共経済学が専門の奥野信宏氏と国土交通省の栗田卓也氏は「新しい公共を担う人びと」で、「日本は安定感のある社会とは言い難い」と指摘する。背景には、社会の安全と安心を支えてきたセーフティーネットの綻びがある。
綻びを大きくしたのは、公共サービスの分野にまで市場原理を持ち込んだ小さな政府論だが、奥野・栗田の両氏は、それ以前の「発展過程において地方圏と大都市圏とを問わず、徐々に各地域の暮らしの土台」は揺らいでいたという。物欲を卒業して「心の豊かさ」を求めようとしたときには、すでに各地域で人と人の繋がりに亀裂が生じていたというのだ。
その亀裂を土台から修復せずに、福祉の大盤振る舞いで繕おうとしたのが大きな政府である。膨らんだ社会保障費が成長率の低下とも相まって国家財政の危機を招き、市場の暴走を惹起したとするなら、「規制緩和と民営化が進んだ」のも、「国民の政府依存が破綻し、政府の失敗が顕在化した結果」ではないかと両氏は述べる。
地域コミュニティーやNPO法人など自発的に活動する人びとによる「新しい公共」の目的は、市場(企業)でも行政(政府)でも「実現されない人びとの欲求を満足させること」にある。市場にも行政にも単独ではできないことがあるからだ。
その意味で新しい公共は、財政学者の神野直彦氏が「地域再生の経済学」で指摘した、「日本では明らかに、社会の共同事業として非市場経済が供給しなければならない財・サービスが不足している」という認識とも通底している。また奥野・栗田の両氏が紹介する新しい公共の豊富な事例も、神野氏が示す「地域社会を人間の生活の『場』として再生させるシナリオ」の多様な実践にほかならない。
奥野・栗田の両氏は、「新しい公共の活動は実態が先行している」という。それは最初に予算ありきの政府には無理な活動であり、利益目的の企業にもハードルが高い事業である。しかし、その溝を人と人の繋がりが埋めるなら不可能は可能になる。
ジャーナリストの本田良一氏が「ルポ 生活保護」(中公新書)で紹介する、自立へのスプリングボードとして生活保護の活用を目指す釧路での自発的な取り組みは、その好例といえる。新しい公共による地域再生を担うのは、企業でもなく、行政でもなく、地域の人びとなのである。
(北海道新聞「現代読書灯」2010年10月24日朝刊)
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