貧困や格差を放置せず まず社会的公平回復を
すでに各紙誌で紹介されている本を取り上げるのは、屋上屋を架けるようで気が引ける。同じような評をすれば新味に欠けると批判され、逆の評をすれば捻くれ者と揶揄されるからだ。それでも評したいと思った一冊が、ベンジャミン・M・フリードマン「経済成長とモラル」である。
多くの評者は国内総生産(GDP)の拡大にすぎない経済成長が、社会の寛容性にも政治的な民主化にもプラスの影響を及ぼすという本書の仮説を支持する。実際、全国紙の書評欄では東大教授の植田和男氏が「経済成長の社会、政治面での好影響という結論には勇気づけられる」と述べ、慶応大学教授の池尾和人氏も「経済成長に対する基本的に肯定的な本書の見通し」については「前向きで楽観主義的な勇気が与えられる」と言って好意的に評価している。
確かに、歴史的にみれば「経済成長によって、社会は開放性・寛容性・デモクラシーへと進む傾向」(同書)があった。
だが、こうした傾向を備えていたのは、世代を超えて何十年にもわたり生活水準の向上をもたらした経済成長である。その意味で本書の仮説に対し「経済成長に関して道徳的な観点からこれほど楽観的な見通しを提示できるのは、アメリカ人―それも筆者(フリードマン)の世代のアメリカ人―だけだろう」と感想を述べたフリードマンの同僚は的を射ていた。
改めて指摘するまでもなく、まず経済成長があるのではなく、モラルと成長は表裏一体の関係にある。そうした関係の中で、成長がモラルをリードし続けた時代のアメリカを謳歌できたフリードマンの世代は幸運だったに違いない。しかし、成長の可能性よりも成長の制約や限界が顕在化し始めている現代においては、成長よりもモラルの源泉である社会的公平の回復を優先する必要がある。貧困や格差を放置し、モラルを犠牲にしてまで成長を優先すれば共倒れになってしまうからだ。その顛末こそ「改革なくして成長なし」の小泉改革の破綻であり、それを克服しようとして誕生したのが「生活第一」の民主党政権だったのではないか。
フリードマンはモラル回復の財源として、新自由主義的な減税策で恩恵を受け続けてきた富裕層に負担増を求める一方、社会保障給付の削減には反対する。本書を読んで少なくとも私は成長の好影響よりも、公平な社会の重要性に勇気づけられた。同じことは「技術進歩の可能性を過小評価した誤った予測」として本書でも批判されているローマクラブのレポート「成長の限界」についても言える。福島第1原発の事故後は、原子力政策に内在する技術楽観主義を諫めた先駆けの書として同書を再評価すべきだと思う。
巷間に流布する「評」で満足せずに、自らの手で紐解いてみる。そこに読書の醍醐味が潜んでいることを忘れてはならない。
(北海道新聞「現代読書灯」2011年07月10日朝刊)
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