漠然とした印象なのだが、格差問題がこれほど世をにぎわせている割に、どうも政治問題になりきっていないように思えてならない。
明確な利害対立として、政治の場において焦点化していない気がするのである。
現在、多くの人が日本社会において経済的・社会的な格差が拡大しつつあるのではないかと危惧(きぐ)している。もちろん、現実にどれだけ格差が拡大しているかという客観的な指標については、なお議論がある。
結集しない不満
だが、かつて日本社会を支配した「一億総中流」の意識が崩れ、格差が拡大しつつあるという認識が広まっていることは否定しがたい。
ところが、日々格差問題が語られているにもかかわらず、これが本当に政治問題化するかは、今のところはっきりとしない。
「下流」という言葉を耳にすることも多いが、自分が「下流」に属すると考える人たちがはたして、格差の是正を主張したり、さらには、そのような格差を生み出す社会の根本的不公正に対して一致団結して異議申し立てをしたりするかどうかが、はっきりしないのである。
富の配分の不平等や不公正は、伝統的には政治の最重要争点であったことを思うと、これは奇妙な事態であると言わざるをえない。
これまでのところ、格差問題について、経済学や社会学、あるいは教育学の視点からの議論が活発であるのに対し、政治学の視点からの議論がいまひとつ不活発であることも、このことと無関係ではあるまい。
おそらく、格差というものが、一体いかなる政治的な意味を持つのか、はっきりした見通しが立たないのである。格差問題がいかなる意味において社会の共通課題であるのか、説得力のある議論が出て来ていないのである。
格差の問題を痛切に感じ、格差の広がりに対して不満を持つ人の数は少なくないはずであり、不満を持つ人々が結集すれば、一つの政治的な力となるであろう。
しかしながら、不満を持っているという点では一致団結できるとしても、何に不満を抱いているのか、どこにその原因があるのかを論じ始めると、たちまち団結は崩れてしまうのが現状である。
というのも、かつての不満が、階級意識とも結びつき、社会のなかで一定の数を有し、はっきりとした輪郭を持つ社会集団とのかかわりを持っていたのに対し、現代の不満の特徴は、一人ひとり多様で、ますます個別化する傾向を持っているからである。
同じく、自分が現在置かれた状況に対し不満を持っているとしても、その不満は、各個人のこれまでの人生、家族、周囲の環境などと不可分に結びついている。
もちろん、そのような不満にも、客観的に見ればいくつかのパターンがあるのだが、少なくとも各個人にとっては、そのような不満はあくまで「自分」固有のものとして受け止められている。
したがって、不満があるという点では一致できるとしても、その原因を社会的に特定し、問題の負担をなるべく公平に分担しようということになると、とたんに不一致が目立つようになってしまう。
ちなみに昨年フランスでは、25歳までの若者を雇えば最初の2年間は自由に解雇できる「CPE(初期雇用契約)」制度が導入されかかった。それに際し若者たちから、不利な雇用形式だと異議申し立てがなされたうえ、広く世代を超え、若者だけに負担を押しつけるべきではないとの意思が表明された。
人をつなぐ言葉を
日本ではこれを冷ややかに評する向きも少なくなかったが、少なくともフランスにおいては、対立を明確に争点化し、それを社会として受け止める回路がまだ残っていたことになる。
日本において、不満を持ちつつも、そのような自分の思いを政治が受け止めてくれるはずがないと、声を上げることすら断念してしまう人の数が増えているとすれば、それは何より危機的なことではなかろうか。
「自分」の思いと政治とをつなぎとめる言葉。聞いた人間に「それは自分の問題だ」と思わせる言葉。
今、日本社会に最も求められているのは、そのような言葉であろう。
格差問題について語る政治家は多い。しかし、そのような有効な言葉を持つ政治家がはたしてどれだけ現れるだろうかということが、現在進行中の、そして今夏まで続く選挙戦の重要な焦点である。
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