一 格差、憲法、年金…何が争点なのか
今回の参院選の一つの特徴は、めまぐるしい争点の推移である。当初より民主党は生活に密着した政策論を志向し、とくに雇用や労働、子育て、都市と地方などの格差問題を主要な争点にしようとしてきた。片や自民党は、むしろ九条改正を含む新憲法制定を射程に入れた憲法問題を参院選の主眼に据えることで、これに対抗しようとした。ところが、格差問題は大きな社会的関心の対象となっているにもかかわらず、必ずしも明確な政治的対立軸とはならず、他方、憲法問題をクローズアップしようとする安倍政権の意図も、思いがけない「消えた年金」問題の噴出によって足をすくわれることになった。
しかしながら、有権者にとってのとまどいの一因は、争点の激しい入れ替わりにある。それも憲法問題という国の根本的枠組みの問い直しから、格差という身近な実感にもかかわる問題、さらに年金という社会保障の根幹的な制度問題へと、およそ次元を異にする諸問題の間で争点が頻々と推移したことは、いったい何が参院選で真に問われているのかという疑問を、有権者に抱かせることになった。
もちろん、各政党が選挙戦を迎えるにあたって、自党にとってもっとも有利な争点を選び、その重要性を強調することそれ自体は、なんら特別のことではない。また、他党の弱点をつき、その内部分裂をもたらすような争点をあえて強調することも、珍しいことではない。その意味で、争点選択に、各政党にとっての思惑や選挙戦略が垣間見えるとしても、直ちに非難するわけにはいかないだろう。
ただ、今回の選挙戦においてとくに顕著なのは、争点の著しい<脈絡のなさ>である。それも、この<脈絡のなさ>には二重の意味がある。まず、各党の側において、今回の選挙戦の争点を選ぶ際に、自らのこれまでの議論をどれだけ踏まえたのか、疑問な部分がある。民主党の側でいえば、社会民主主義系の議員によって、過去の社会政策の総括や、それとの関連における現在の格差問題の位置づけに関する議論が十分になされているとは言えないし、同党の保守系議員においても、伝統的な成長政策や地域振興政策との連続・非連続を問題にしようという明確な意識があるようには思えない。
自民党の側においても、自主憲法の制定が結党以来の課題であるとはいえ、同党の「新憲法草案」作成時の混乱や、その後の連立与党内での合意形成への努力の欠如、さらに今回の選挙戦での選挙綱領作成時の拙速ぶりを見ると、十分にこれまでの議論を煮詰めたものであるかは、おおいに疑問がある。むしろ安倍首相の憲法改正に対する個人的な「思い入れ」の突出ぶりが目立ち、自民党や公明党の過去の議論との慎重なすりあわせを欠いたものであるという印象もある。
このような意味で、民主・自民両党の選挙戦略が、過去の自党の政策や政治的志向との関係において、十分に<脈絡>づけられたものであるとはけっして言えないだろう。
もう一つの<脈絡のなさ>とは―ある意味で、こちらの方がさらに有権者の混乱を生み出していると言えるのだが―両党の側で、自らの争点が、相手側の争点との間でどのような関係にあるのか、なぜ自らの主張する争点が相手側の争点より重要なのか、という点に関して、説得的な議論がなされていないことである。目につくのは、相手側の争点にできるだけ「知らんふり」を決め込もうとする姿勢である。
しかしながら、このような姿勢は、現在、衆議院に導入されている小選挙区制度が念頭に置いている二大政党の理念に照らしても、のぞましい事態とはいえない。なぜなら、多党化をもたらすとされる比例代表制の下では、例えば環境なら環境にポイントをしぼり、単一の争点を主張する「シングル・イシュー・パーティー(単一争点政党)」の存在も許容される。しかしながら、小選挙区に主眼を置いた選挙制度の下では、自ずと政党の数は限られることになる。したがって、主要な政党は多岐にわたる争点について包括的に政策案を提示し、争点間における明確な優先順位をつけることが求められるのである。
ところが、そのような制度論の前提にもかかわらず、現実の選挙ではむしろ、これとは逆の事態が見られる。その典型が二〇〇五年九月の衆議院選挙であり、小泉前首相は「他にも重要な争点がある」という野党の声に耳をふさぎ、争点をほとんど「郵政民営化」の一点にしぼって、大勝利をおさめた。いわば小選挙区を中心とする選挙制度下の政権与党によって、「シングル・イシュー」化が進むという皮肉な事態が生じているのである。
今回の参議院選挙においても同様の傾向が見られるが、ここで述べてきたような二重の意味での<脈絡のなさ>により、争点選択の恣意性がことさらに目立つようになっている。いわば、悪しき意味において、選挙の「ポスト・モダン」化が進んでいるのである。争点は個別的で、しかもくるくると変わる。ところが、なぜ変わったのか、変わったことの意味は何なのか、さっぱりわからないというわけである。そこに見られるのは、単なる党利党略を越えた、政治それ自体の意味創出機能の深刻な衰退ぶりである。意味を失った政治はとめどなく軽くなっているが、その軽くなった政治によって、あるいは重大な決定がなされかねないという時代に私たちは生きているのである。
本稿の課題は、このような<脈絡のない>争点間の推移を評価し直し、そこに何らかの意味を見いだそうとすることにある。そのことによって、政党の側における争点選択の恣意性に対抗し、有権者の側に主導権を取り戻すことが目的である。その際、分析の一つの焦点を、政治と「私」の関係に置くことにする。いささか奇妙な問題提起にも見えるかもしれないが、以下、個別の争点に即して検討することで、その意味を明らかにしていきたい。
二 政治は格差を語れるか〜不満の「私事化」
まずは格差問題である。なぜ格差は、有効な政治的対立軸とならなかったのだろうか。一つには当初、格差の存在それ自体は問題ではなく、格差が固定されるのを防ぎさえすればよいとする「再チャレンジ」政策や、成長力の強化による格差是正を訴えてきた自民党もまた、次第に格差是正のための対策に乗り出してきたことがある。結果として、自民党と民主党の違いは相対化されることになった。
しかしながら、より根本的なのは、そもそも格差問題が明確な対立として政治の場において焦点化しうるか、という点に関わっている。たしかに現在、格差の問題を痛切に感じ、格差の拡がりに対して不満を持つ人の数は少なくないはずである。もしこの人々が結集して格差の是正を主張し、さらにはそのような格差を生み出す社会の根本的不公正に対し一致団結して異議を申し立てるとすれば、それは一つの政治的な力となるであろう。
ところが問題は、その不満の性質にある。しばしば指摘されるように、はたして格差の拡大を客観的な指標として示すことが可能であるかについては、なお議論がある。不平等度を測る指標である所得のジニ係数の増大についても、むしろ社会の高齢化の結果であるという有力な議論が存在する(大竹文雄『日本の不平等』、日本経済新聞社)。成果主義の導入によるホワイトカラーの所得格差や、ワーキングプアの増大は間違いないとしても、はたして本当に日本社会の格差が拡大していると言えるかどうか、客観的なデータで示すことはけっして容易でない。
が、他方で、「格差が増大している」という主観的意識が拡がっていることもまた否定しがたい。そもそも話題になった三浦展氏の『下流社会』(光文社新書)にしても、問題としているのは、日本の総中流意識が崩れ、自らを「中の下」もしくは「下」と認識する層が増大しているということであった。したがって、問題を複雑にしているのは、客観的な指標と主観的な意識との間の微妙なずれなのである。
しかも、その不満をさらにみていくと、不満を持っているという点では一致団結できる人々の間でも、何に不満を抱いているのか、どこにその原因があるのかをさらにつきつめて議論していくと、むしろその間の違いの方が目立つようになる。かつての不満は、階級意識とも結びつき、社会のなかで一定の数を有し、はっきりとした輪郭を持つ社会集団との関わりを持っていた。したがって、自分と同じような境遇の人間と連帯し、政治的な声をあげていくことも可能であった。これに対し、現代の不満の特徴は一人ひとり多様で、ますます個別化する傾向を持っていることにある。
このことに加え、さらに不満の「私事化」が進んでいることを指摘できるだろう。すなわち、現在、各個人は自らの不満を、社会的に共有された問題との関わりにおいて捉えようとするよりも、むしろ「私」の問題、自分固有の問題として受け止めがちである。家族環境、これまでの教育、さらには自分の精神状態等々、自分の現在置かれた苦境の原因を、自分のパーソナル・ヒストリーに引きつけて理解してしまうのである。結果として不満は断片化され、分散化されてしまう。逆にいえば、不満をつなぎとめ、共通の大義や共通の問題意識へと結晶化することができないのである。そのためにむしろ、不満や苦境の意識はさらに深まるという悪循環に陥っている。
この原因がどこにあるのかは、それ自体としてさらに検討すべき重要な課題である。少なくとも、それが「自己責任」を強調し、社会のあらゆるリスクを個人の責任で受け止め、対処しなければならないとする、現代の支配的な言論の風潮と無縁でないことは言うまでもない。が、ここでは、このような風潮とあいまって、現代の不満が「私事化」され、社会の共通問題として政治の場において焦点化されにくくなっていること、そのために格差問題が政治的対立軸になり切らないでいるということを確認したうえで、次の憲法問題に目を転じてみたい。
三 憲法問題〜「私」と「公」の無媒介な接合
すでに指摘しように、今回の参院選で憲法問題が争点化されていることに関しては、安倍首相の個人的な「思い入れ」の突出ぶりが目立つ。しかしながら、しばしば指摘されるように、安倍首相のこの「思い入れ」には奇妙な特徴がある。すなわち『美しい国へ』(文春新書)において特徴的に現れているように、彼は憲法問題に対する自らのコミットメントの理由を説明する際に、まず何よりも、自らの祖父岸信介元首相の「無念」をはらしたいという、きわめてパーソナルな理由づけをあげていることである。つまり首相という公職につこうとする政治家が自らの政治的課題を設定する際に、自分の親族に対する私的な思いを最大の根拠としているのである。ここには独特な「私」と「公」の無媒介な接合が見られる。教育を通じての「公共心」の寛容を訴える安倍首相であるだけに、この特徴は興味深いと言える。
思えばこのような特徴は、小泉前首相にも見られるものであった。すなわち、小泉前首相は、その在任中、靖国神社に参拝して中国や韓国から批判を受けた際、「これは心の問題である」という言葉によって反論を試みた。しかしながら、このような弁明は、いささか奇妙なものであったと言えるだろう。なぜなら、問われていたのは、現在の日中・日韓関係の基礎にある、先の戦争についての日本政府の責任者としての見解だったからである。これに対し、小泉前首相は「これは心の問題である」と答えたのである。いわば、一国の政府の責任者がその資格においてとった行動に対する批判に対し、個人の信念の問題として、他のいかなる政治的・法的説明も拒んだに等しいのである。
ここには小泉政治の一つの鍵が見られる。この例にも見られるように、彼の発言の一つの特徴は、自らの個人的な信念や感情と首相としての政治的行為とを、ストレートに結びつけるスタイルにあった。このようなスタイルは、個人的信念と政治的行為との間にあってしかるべき、様々な法的・政治的説明を素通りするものであるが、従来の政治の営みに対して距離感を感じていた人々のうちには、これを好意的に受け止める層も存在した。そのような人々は、伝統的な保守政治や官僚支配に対しては激しい拒絶感、嫌悪感を抱いていたが、小泉の展開する政治的行為や発言には、むしろ親しみや共感の念さえ示したのである。彼らは、小泉の発言を、従来の政治家による公式的な発言と比べ、自分たちの一人ひとりに向けて語りかけているようにさえ感じると言う。このように、従来の政治からは疎外されていると感じていた人々の政治的関心をかき立て、投票行動へと動員したことこそ、小泉の支持獲得戦略の大きなポイントであった。
安倍首相の憲法問題へのこだわりにも、似たような側面が見られる。これまでのところ、そのような安倍首相のスタイルが、多くの国民の支持を得ているとは言い難い。そこに彼と小泉前首相の最大の違いが見られるのであるが、にもかかわらず、私的な信念や思いを無媒介に自らの政治家としての公的行動の理由づけと直結させるという点においては、両者の間には興味深い類似性が存在するのである。
格差問題においては、不満が「私事化」され、公的な問題設定の場になかなか届かないとしたが、憲法問題においてはむしろ、首相自身によって、私的な信念と公的な課題設定の無媒介な直結ぶりが示されている。ここには現代政治を特徴づける、不思議な「私」と「公」の関係が見て取れる。所属する社会集団との結びつきを媒介とするような、伝統的な「私」と「公」の結びつきは弱まっているが、逆に法的・政治的考慮を媒介とすることなしに、「私」と「公」をひたすら実感レベルでつなごうとする試みが、しばしば成功を収めているのである。ここにこそ、現代政治を特徴づける「私」と政治の実に微妙な関係が、特徴的に示されていると言えるだろう。
四 年金がなぜ急激に争点化したのか〜「私」の不安の噴出
そして年金問題である。世論調査などによれば、年金は早くから参院選の重要な争点として、広く国民の間で認識されてきた。にもかかわらず、五月になるまでは、ここまで大問題化すると予想する人はけっして多くなかった。
一つには、年金問題が社会保障制度の根幹にある制度であるとしても、それが制度論として議論される限り、複雑で抽象的なイメージを与えがちであったことを指摘できるだろう。すなわち、年金問題は重要ではあるが、明確な見通しが立てるのが難しく、また技術的側面も強いことがあって、リアリティをもって議論するのが難しい問題なのである。また、年金問題を論じるにあたって少子化がしばしば問題とされるように、年金の議論においては、基本的に人口という、人間を数量で扱おうとする視点が強く、国民の一人ひとりにとっての未来への展望や希望とは直接結びつきにくい傾向もあった。したがって、ここまで論じてきたように、現代政治を見る際の一つの鍵が「私」と政治の微妙な関係にあるとすれば、年金問題は十分に「私」の問題として受け止められてこなかったのである。
ところが、年金についての議論は、「消えた年金」の噴出によって、急激に選挙戦の焦点に躍り出た。これはいささか、二〇〇四年の政治家の年金未納問題、すなわち当時の福田康夫官房長官や菅直人民主党代表の辞任という政局をもたらした事件を想起させるものである。この事件も時が過ぎてしまえば、いったい何であったのかわかりにくい事件であるが、年金制度への不信感が個別の政治家の「スキャンダル」と結びつき、一気に顕在化したものとして理解することができるだろう。すなわち、抽象的な制度論が展開されている際には焦点化しなかった国民の間の潜在的な不満が、個別的な政治家の人格を媒介にしたとたん、急激に爆発したのである。
今回の事件もまた、社会保険庁におけるずさんな年金記録処理のあり方への怒りと、自らの年金記録の行方に対する不安とが核となって、国民の潜在的な不満に火がついたと言える。しかも個人の年金記録の不備は、単なる技術上の瑕疵を越えた意味があることに注意しなければならない。というのも、各個人が、その人生の折々で多様なかたちで加入していた年金記録が、同一の人間のものとして正確に把握されていなかったということは、もっとも客観的とされる公的な社会保障制度上においてすら、個人の自己同一性が確保されていなかったことを意味するからである。いわば、個人のアイデンティティをめぐる不安が、年金という公的制度の根幹においても見られたのである。年金制度が、各個人の将来設計、いわば未来への展望とかかわっているだけに、問題の傷が深いと言えるだろう。今回の事件は、そのような一人ひとりの個人の将来展望に大きな影を投げかけたのである。社会保障制度という、未来に向けた国民間の連帯の制度に関して起きた今回の事件は、「私」と政治の間の疎隔感を拡大するとともに、「私」の立場からの怒りを喚起するものであったということが、本稿の視点からは重要である。
ちなみに、「消えた年金」問題が直撃したのは中高年層の不安であり、若年層に対してはそれほどの重要性を持たないという見方もある。しかしながら、社会保障制度が国民にとっての未来への展望と結びついているものであるだけに、この制度に対する根本的な不信感が、これからこの制度を支えていくことを期待される若年層にとって持つ意味はけっして小さくない。彼ら・彼女らにとって、この国の社会保障制度、ひいてはあらゆる公的な諸制度が信頼するに足るものなのか、それを支えるために自らが寄与するに値するものなのか、そのことが問われているからである。その意味で、今回の年金問題はきわめて重要な問題であり、これに対し政党側が表層的な対応に終始すれば、その禍根は長期的なものとなるであろう。
五 参議院選で問われていること
それでは、このような争点の推移の背景に、いかなる意味を見いだせばよいのだろうか。一見したところ<脈絡がなく>、表層的にさえ見える選挙戦をめぐる言説を越えて、そこで真に問われているものはいったい何であるのか。
本稿の視座からすれば、それは、「私」と政治とを結びつける、新しい回路の模索にほかならない。現在、伝統的な政党の支持組織・支持基盤に大きな動揺がみられるように、従来人々を政治へと結びつけてきた政治的動員の回路は急激に解体を迫られている。このことを個人の側から見れば、自分の不満を社会の共通の課題へと結びつけ、主張を政治の場へと代表させるための道筋が見失われたことを意味している。
すでに触れたように、小泉前首相の独特なスタイルは、既存の法的・政治的ルートを迂回したところで、個人的信念と政治的行動とを結びつける可能性を暗示した。このスタイルが、既存の回路の機能不全を意識的・無意識的に認識した上での戦略であったことは間違いない。しかしながら、それが法的・政治的な言説と考慮を着実に積み重ねるものではない以上、「瞬間芸」以上の意味は持ちにくく、逆に容易にイメージのマーケティング戦略へと堕してしまいかねないものであることに、有権者はすでに気づいている。また、とくに個人な政治的美意識(『美しい国へ』!)を政治に直結させてしまうことが持つあやうさと危険性についても、多くの有権者は自覚し始めている。その意味で、安倍首相の憲法改正への企図が、「消えた年金」という美しくない、しかしながら個人の生活と深く結びついた問題によって足をすくわれたということは、それなりに歴史的な意味と必然性のあることであったと言えよう。
しかしながら、目下のところ参院選の年金をめぐる政治の動きが、社会保険庁という目に見えやすい存在に対する怒りや、個人的な不安感によって突き動かされているという事実も否めない。これはある意味において、「私」と政治をつなぐ回路が不全を起こしている現在、政治の場において表明され、かつ政治的に動員されうるのは怒りや不満という情念しかない、ということの現れなのかもしれない。しかし、怒りや不安の政治的動員は、それだけならばけっして長続きしないし、新たな仕組みを打ち立てることもない。このこともまた、忘れてはならないだろう。
したがって、もしこのまま年金問題が参院選の最大の争点となるのであれば、むしろこれを、一人ひとりの個人が、その将来への展望や希望を託するに足る社会制度を構築するために何が必要か、という議論へと発展させていく必要がある。すなわち、この年金問題を、より広く、社会保障制度、さらにはこの国の公的制度全般への信頼を回復するための試金石へと発展させていかなければならないのである。
このことを考えるならば、もし仮に、憲法というこの国の根本的枠組みや原理をあらためて問い直すのだとしても、それは以上のような、この国の公的制度への信頼回復を前提としたものでなければならない。それを迂回した憲法論議には、どうしても砂上の楼閣という印象をぬぐえない。
現在の日本において、不満を持ちつつも、そのような自分の思いを政治が受け止めてくれるはずがないと、声を上げることすら断念してしまう人の数が増えているとすれば、それは何より危機的なことである。「私」の思いと政治とをつなぎとめる回路を取り戻すために、政治家や政党は、自らの主張する争点を有権者に「それは私の問題だ」と思わせるための努力が必要である。また、有権者の側においても、そこまで議論が深化していくよう、政党の側での短期的な世論操作に惑わされることなく、議論の行く末を見届けていかなければならないし、そうなるように政党や政治家にプレッシャーを与えていく必要もある。
おそらく、新しい「私」と政治の結びつきを回復することはなお時間を要する課題である。その意味で、一回の選挙に期待できることは限られるはずである。しかしながら、政党の側において争点を脈絡づける意欲と能力に疑問があり、また有権者の側においても政治への疎隔感が高まっている今日、残された時間はけっして多くない。とくに、今回の選挙の結果次第によっては、政治的な争点の<脈絡のなさ>が恒久化し、今後そのような状態のまま、国内的にも、国際的にも重大な決定がなされていく可能性がある。したがって、有権者が<脈絡のなさ>に慣れてしまうこと、そして政党もまたそのような状況に居直ってしまうことこそ、もっとも恐れなければならない事態である。
あるいは、このような<脈絡のなさ>を一過的なものに過ぎないと考える人もいるだろう。ここまで政治を脈絡ないものにしてしまったのは、もっぱら安倍首相、あるいは小泉前首相の特異な政治的パーソナリティーであり、彼らが政権から去れば、自ずと<脈絡のなさ>は解消し、政治に意味が回復するはずであると、人は言うかもしれない。しかしながら、彼らを権力の座へと導いたのもまた時代の精神であるとすれば、そのような精神自体が変化しないかぎり、また同じタイプの政治家がその後を追うだけである。必要なことは、このような<脈絡のなさ>を生み出す時代の精神に対し、徹底的に抗することではなかろうか。
そもそも政治に意味を求めるのは無理であり、このような<脈絡のなさ>を有権者は甘受するしかない、という虚無感にとらわれないためにも、<脈絡のなさ>への抵抗は重要である。その意味で、今回の選挙の最大の争点は、まさにこの<脈絡のなさ>の克服それ自体なのだということを、最後にもう一度強調しておきたい。
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