「キャラが立たない」と言われ続けた福田康夫首相が辞意を表明した。が、正直いって、この評価は正当でないように思われる。
たしかに、小泉純一郎元首相以来、政治は「キャラ化」した。
この場合、「キャラ」とは元々、漫画やアニメにおける登場人物を指すものであった。これがさらに、マーケティングにおける商品を市場に認知させるブランド戦略と結びつき、自分を人に認知させ、自分のポジションを確保するための能力一般を指すようになった。
注意しなければならないのは、この「キャラ」とは、言葉の本来の意味とは異なるということである。英語本来の「キャラクター」とは、人が長い時間をかけて築きあげるもので、人柄とか人格、あるいは人となりと訳されるべきである。
人は人生のなかで、他の人々と長期的にかかわり、そのなかで信頼や信用を獲得していく。自分自身にも、時々の感情に動かされず、自分なりの目標、自分なりの生き方を確立していく拠り所が必要である。それが社会的に認められることで「キャラクター」となるのである。
このような意味での「キャラクター」とは異なり、「キャラ」はあくまで短期的であり、表層的である。その瞬間その瞬間、人の眼を自分に引きつけられれば、「キャラ」は立つ。「キャラ」の背後に、「深い」人間性は見出せないし、そもそも必要とされていない。
昨年の自民党総裁選で麻生太郎氏は、「私は非常にキャラが立ちすぎて」と語った。言葉の含意をどれだけ意識したものかはわからないが、サブカルチャーへの造詣が深いとされる麻生氏らしい発言であった。
福田首相に対して、「キャラが立たない」という表現が正当ではないというのは、おそらく本人が自覚的に「キャラ」立ちを拒絶していたと思われるからである。
安倍晋三前首相は、ある意味で「キャラが立たない」首相であった。次から次へとサプライズを繰り出し、国民を飽きさせなかった小泉元首相と比べ、安倍前首相の「キャラ」は不明瞭であり、少なくとも国民を楽しませるものではなかった。
選挙の顔として魅力的な「キャラ」を提示することに失敗し、安倍前首相は政権を去った。これを受けた福田首相は、自らの個性も振り返ったうえで、あえて「キャラ」として自分を提示することを拒絶したのである。
また、いささか政治の「キャラ化」自体に食傷していた国民の間にも、これを歓迎する雰囲気があった。政治家に求めるべきなのは「キャラ」ではなく、社会の方向性を示し、それを政策として実現していく、本来の意味での政治ではないか。そのような思いが広がっていったからである。
しかしながら、「キャラ」立ちを拒絶した首相と、「キャラ」ではなく政治を求めた国民の期待は、結局、この一年間すれ違い続けたようだ。
辞任表明の記者会見からは、福田首相が、道路特定財源の一般財源化、消費者庁の設置、社会保障制度の抜本的見直しなどにより、自分なりの政策を示したという自負を持っていたことがうかがえる。
ところが国民の眼には、これらの政策によって福田首相がどのような社会の方向性を目指すのか、最後まで見えにくいままだった。首相の口ぶりからは、わかってくれない側が悪いという不満がうかがえたが、やはり説明の不十分さが印象として残る。
今後自民党の総裁選が進むなか、もう一度、政治を「キャラ化」することで、場を盛り上げようとする動きが出てくるかもしれない。しかしあえていうが、それは世の実感とずれている。
人々がいま求めているのは、政治家らしい「キャラクター」とまでは言わないまでも、現在の困難をきちんと説明でき、社会が目指すべき方向性について国民の理解を真摯に求めるための言葉である。
政治において、言葉の裏づけのない「キャラ」はもう御免である。
(毎日新聞<現在>を読む 2008年09月08日朝刊)
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