安倍晋三前首相、福田康夫首相と二代にわたる首相が、いずれも就任わずか一年にして政権を放り出した。しかも、両方とも内閣改造から間もなく、誰もが予想していない唐突な辞意表明であった。
二代続け無責任
そこには一つの政権の終焉が持つ重みは感じられず、むしろ一個人としての首相の弱さ、孤独さばかりが目についた。あまりに似通った光景を前に、政治はいったいどうなっているのかと誰しもが思わざるをえない状況に、日本国民は立たされている。
一度目のときは、それでもすべては平常通り動いているのだから、それだけ日本社会も安定しているのだと軽口をたたくことができた。しかしながら、二度目となると、それもむなしい。
現在の日本社会は、国際的にも国内的にも多くの困難に直面している。ところが、政治はそれを乗り越えるどころか、どう対応すべきかという議論の糸口すらつかめずにいる。日本政治は、確実に根源的な方向喪失と漂流へと向かっている。
まさしく政権を「放り出した」という印象の否めない二人の首相の無責任さは、批判されてしかるべきである。ただ両首相とも、政治家としてのキャリアが短く、主要閣僚をほとんど経験せずに首相に就任したことを思えば、そもそも無理があったのだとも言える。
学習能力あるか
責められるべきはむしろ、ただ人気がありそうだというだけで、二人を首相に担ぎ上げた他の政治家であろう。担ぎ上げておきながら、いつの間にかはしごをはずし、また次に担ぎ上げる人物を探して狂奔しているのだから、罪が深い。
このことに対する根本的な反省なくしては、誰が次の首相になっても同じことが繰り返されるばかりであろう。日本政治の学習能力が問われているのである。
何より問題なのは、一つの政権が終焉をとげても、そのことが何を意味するのか、きちんとした反省と総括がなされていないことである。
民主政治とは、つねに正しい答えを出すことを期待されている政治体制ではない。ただ、国民の信任を得たその時々の政権担当者が、つねに国民の審判を受け、その結果次第で責任を取らされるという意味で、つねに自己チェックが制度化された政治体制である。
ところが、現在の日本政治には、この自己チェックがなされていない。二代の首相在任期間中に総選挙が一度も行われなかったことが何よりの証であるが、それだけが問題ではない。
安倍政権は小泉政権の何を継承し、何を否定したのか、最後まで曖昧だった。その曖昧さは福田政権においてますますひどくなった。
体制の無意味化
福田首相はおそらく彼自身が批判的であった、小泉政権の新自由主義的な経済政策や、安倍政権の新保守主義的な外交政策に対して、最後まではっきりした姿勢を示すことなしに政権を去ることになった。
結果として、その福田政権が終焉したことの意味もまた、いまだ総括しがたい。
政権が変わること自体は、民主政治の常である。しかしながら、前政権の総括がなされずに次の政権が出発し、その政権もまたいつの間にか代わってしまうのは、民主政治の自己否定に等しい。
民主政治は、変化を制度化した政治体制である。ただ、その変化の意味が曖昧になり、にもかかわらず変化のペースだけが早まるとき、体制の無意味化が進む。
それでは、現在政治が陥った根源的な方向喪失と漂流から、いかに脱却すべきだろうか。
政党と政治家は、自らが背負っているものを再確認すべきである。自分の後ろで自分を支えている人々、自分を突き動かしている社会的な力。自らが何を代表しているのかわからなくなった政党、自分の身の回り数キロメートルの人間関係しか見えなくなった政治家は、無力である。
民主政治のダイナミズムを復活させること、そのダイナミズムを織りなす変化の意味を総括し続けること、それ以外に道はないように思われる。
(北海道新聞「論考08」2OO8年09月12日夕刊)
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