今年の一年を振り返るとき、政治に関しては間違いなく不毛な一年であったと言わざるをえない。
裏切られた期待
福田政権は、いかに小泉・安倍政権を継承し、また乗り越えていくのか。また与党と野党との間に、いかに有効な政策的対立軸が形成されていくのか。いずれの期待も裏切られたという思いが強い。
福田首相はねじれ国会を前に有効な対策をとれず、前政権の総括をする前に政権を投げ出してしまった。後継の麻生首相にしても、経済危機への対応を理由に、選挙を通じて野党に対する自らの立場を明らかにする機会を失しつつある。
小泉政権以来の経済政策は、なんらの総括もないままに放棄されてしまった。にもかかわらず、郵政民営化を最大の争点とした選挙で選ばれた議員たちは、そのまま残っている。
政治が、国民の生活にかかわることのうち、何が問題で、いかなる対策が必要かという「意味」を形成し、国民の判断の前に選択肢を示すことを任務とするならば、そのような政治は、いまの日本では機能停止に陥っている。まさしく「意味不明」である。
米社会一歩前に
この「論考08」では、アメリカの大統領選挙を何度か取り上げた。ブッシュ政権下で拡大したアメリカ社会の亀裂はますます厳しいものになっている。サブプライム問題に端を発した経済危機も深刻である。しかしながら、アメリカ国民は、アフリカ系初の大統領となるバラク・オバマ氏を選び、「希望」と「変革」の道を探っている。
オバマ氏の政権がはたしてアメリカ国民の期待に応えることができるか、予断を許さない。とはいえ、アメリカ社会が一歩前に踏み出したことは確かだろう。これに対して、日本社会はどうなっているのか。
しばしば指摘されることだが、オバマ氏の演説には「彼ら」という言葉があまり出てこない。彼は「私」の話をし、目の前の有権者に「あなたがた」と呼びかけ、最後は「私たち」の力で政治を変えていかなければならないと説く。
象徴的なスタイルである。一人一人の人生から話を始め、最終的には分断の進むアメリカ社会に新たなる統合をもたらそうとする、オバマ氏ならではのスタイルと言えるだろう。
「白人のアメリカでもなく、黒人のアメリカでもなく・・・」、「民主党のアメリカでもなく、共和党のアメリカでもなく・・・」と続く演説の決めセリフはこうである。「私たちはアメリカ合衆国民なのだ」。そして大統領に当選したオバマ氏は「私たちには、それができる(イエス・ウィー・キャン)」と締めくくった。
失言を生む発想
麻生首相の失言が続いているが、何より問題なのは、単に舌が滑ったという以上に、失言の根底に、誰かを悪役にする発想が強くうかがえることだ。
医療保険に関しての「たらたら飲んで、食べて、何もしない人(彼ら患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」という発言。医師不足に関しての、「(医師には)社会的常識がかなり欠落している人が多い。(私たちと彼らは)ものすごく価値観が違う」という発言。
ここにみられるのは、「悪いのは彼らだ」という発想である。言い換えれば、「私たちは悪くない」というかたちで、否定的に自分たちの立場を正当化しようとする発想である。
たしかに「彼ら」の言説は、過去十年、いやそれ以上の時期にわたって、政治的に有効な戦略であったことは間違いない。それも日本だけでなく、世界のあちこちで当たり前にみられた戦略だ。
しかしながら、オバマ氏の大統領当選は、そのような時代の変化を示しているように思われてならない。そして、その意味で、麻生首相の言説にはぬぐい難い古さを感じる。
来年の日本政治において、現代日本社会にふさわしい、否定的ではない「私たち」の発想が見られることに期待したい。今年の回顧であり、来年に向けての「希望」である。
(北海道新聞「論考08」2OO8年12月15日夕刊)
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