「弱い環」としての政治
今こそ政治の時代であるという声がある。
たしかに、サブプライム問題に端を発した世界恐慌の危機や、日本国内における派遣切りに象徴される雇用問題は、市場万能を唱える新自由主義的な「改革」の限界を露呈した。あらためて政府の役割や公的な規制の必要性についての議論が活性化していることは、その当然の帰結であろう。
もちろん、その場合に求められている政治とは、単に政府のはたらきを意味するわけではない。より広く、およそあるべき社会の姿を構想し、そのような方向に向けて、社会の諸資源を適切に配分していくための、公的な意志決定のいとなみ全般をさすものとして捉えるべきであろう。グローバリズムが進むなか、ますます奔流のように展開する経済の動きから人々の暮らしを守り、経済活動と社会の持続的発展のよりより調和をはかることがその課題となる。
しかしながら、そのような意味での政治がかつてないほど必要とされる今の時代において、政治の現状はますます貧困であると言わざるをえない。麻生政権の行き詰まりは歴然としている。長期的なビジョンを提示するどころか、定額給付金問題に象徴されるように、きわめて短期的で場当たり的な施策すら、思うにまかせず迷走を続ける有様である。
これに対し、発足したばかりのアメリカのオバマ新政権はまさに「希望」に見える。しかしながら、ここまでオバマ新大統領に期待が集まるのも、それまでのブッシュ政権の失政と停滞があればこそである。過去数年間にわたり、共和党支持の「レッド・ステート」と民主党支持の「ブルー・ステート」とに分断されたアメリカ社会において、政治はイデオロギー的な党派対立に明け暮れ、有効な意思決定を行ってきたとは到底言いがたい。
このように、グローバル化が進み、かつてなく政治の役割が求められる時代にあって、政治はむしろ、社会のなかでももっとも機能不全、あるいは逆機能すら起こしている部門になっている。政治は、ある意味で、グローバル社会におけるもっとも脆弱な環なのである。〈政治の時代〉における〈政治の貧困〉。この逆説を私たちはどのように理解すべきなのか。本稿はその背景を、より巨視的な歴史のトレンドのなかで考えてみたい。
「グローバルな政治的覚醒」
現代という時代が、〈政治の時代〉となるには歴史的な背景が存在する。このことを考えるうえで参考になるのが、ファリード・ザカリアの『アメリカ後の世界』である。(楡井浩一訳、徳間書店刊、原著のタイトルはThe Post-American World)。
著者のザカリアはインド出身のジャーナリストであり、若くして『フォーリン・アフェアーズ』編集長に抜擢されたことで知られている。現在は『ニューズウィーク』国際版の編集長をつとめている。
この本の特徴は、アメリカの一極支配が終焉し、多極化が進む世界を、アメリカの視点から、どのように捉えるべきかを論じた点にある。その場合のポイントは、「アメリカ後(Post-America)」の意味にある。これが単に「アメリカの没落」や「アメリカの衰退」を意味するならば、この本は必然的に悲観的な色調で貫かれることになるであろう。
しかしながら、この本の印象はけっして暗くない。アメリカにおいても、好感をもって広く読まれたという。その理由は、著者が「アメリカ後の世界」を、「アメリカの没落」ではなく、むしろ「その他すべての国の台頭」として理解していることに見い出せる。
「アメリカの没落」と「その他すべての国の台頭」。両者はコインの表裏であり、その違いは修辞的なものに過ぎないという見方もあるだろう。しかしながら、その見方は正しくない。なぜなら、その違いは世界観の相違に基づくものだからである。
アメリカが没落したというより、その他すべての国が台頭したとすれば、それは歴史の発展と見なすべきである。アメリカ自身はこのことを正面から受け止め、新たな世界に対応すべく、自らを変えて行かなければならない。それはむしろ、次の時代におけるアメリカの新たな発展をもたらすであろうと、ザカリアは説く。
中国とインドの経済発展については、言うまでもない。しかしながら、事態を単にアジアの台頭と呼ぶのは正確ではない。ザカリアの指摘によれば、2006年から07年にかけて、世界の124カ国が4パーセント以上の成長を遂げたという。そのなかにはアフリカ諸国も含まれている。
このような傾向を強調するザカリアの論調は、2008年後半以降の状況を見れば、あるいは相対化の必要があるかもしれない。しかしながら、彼のいう、これまで経済活動の単なる対象や傍観者にとどめられていた世界各地の国々が、新たな国際システムにおいて、主体的な参加者になりつつあるという基本的な傾向は、もはや不可逆のものであろう。軍事的にはなお単一超大国の世界が続いているとしても、その他の次元、すなわち産業、金融、教育、社会、文化においては、脱・一国支配の方向へ急速にシフトが起きている。
このような新たな世界秩序において、先進諸国が結束して計画を進めさえすれば、第三世界の国々はその枠組みを受け入れるであろう、というような想定はもはや有効ではない。新興諸国は、自らの参加しない西洋主導のプロセスに、けっして身を任せようとはしないからである。
問題は権力の多元化、拡散化だけではない。ザカリアの本でも参照しているように、近年、政治学者のズビグニュー・ブレジンスキーが、さかんに「グローバルな政治的覚醒(The Global Political Awakening)」について論じている。(最近では2008年12月16日付けの『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』に同名タイトルで寄稿)。カーター政権の安全保障担当大統領補佐官をつとめ、最近ではオバマ新大統領の外交政策ブレーンとしても知られるブレジンスキーであるが、彼によれば、現在進んでいるのは、世界的なレベルでの政治的意識の高まりであるという。
「歴史上においてはじめて、ほとんどすべての人類が政治的に活発化し、政治意識が高まり、政治的に相互的な影響を及ぼしあうようになっている」。過去の植民地支配の苦い記憶を胸に、多くの国々で、文化的な尊厳、経済的な機会を求める声が強まっているとブレジンスキーはいう。
現在、世界という舞台に上る役者の数が増えているだけでなく、その役者の政治的意識が、かつてないほど覚醒している。このような時代が、政治のダイナミズムを生み出すと同時に、つねに分裂と無秩序の危険性に曝されていることは、あらためて強調するまでもないであろう。
新たなる平等化の波
このような世界的な流れを、どのように理解すべきであろうか。ここで、19世紀フランスの政治思想家、アレクシ・ド・トクヴィルの「平等化」の概念を参照することが、問題の本質理解に役立つといえば、あるいは驚く人がいるかもしれない。
なぜ、19世紀の思想家なのか。しかも、トクヴィルといえば、フランス貴族の立場からジャクソン大統領時代のアメリカを観察した思想家であり、およそ現代世界とは無縁の思想家ではないか。そのようなトクヴィルの議論が、なぜ今の時代を理解するのに役立つのか。そのような声があがるとしても、無理はない。
トクヴィルのいう「平等化」とは、独特な概念である。この概念の下に、彼がまず念頭に置いたのは、これまでまったく別の世界に暮らし、互いを自分とまったく別の存在と見なしていた人々が、接触を通じて、互いを同じ人類と見なすようになる過程である。言い換えれば、それまで人々を隔てていた想像力の壁が空洞化し、そのことによって、改めて人々の間の平等・不平等をめぐる意識が覚醒することこそが、「平等化」の意味するものであった。
これまで互いを異人種のように見なしていた人々が、互いを自分と同じ人種であると見なすことは、もちろん歴史の大きな進歩である。しかしながら、トクヴィルが関心を持ったのは、このことが直ちに「平等化」した人々の平和な共存を意味しないことであった。
自分とまったく異質な存在となら、あるいはその間にある不平等をそれほど意識しないかもしれない。しかしながら、自分と同じ人間であるとすれば、自分とその同胞との間にある不平等はなぜ正当化されるのか。両者を隔てる想像力の壁があまりに自明で、その存在すらとくに意識されなかった時代と違い、基本的に平等であるからこそ、さらに自他の違いに敏感にならざるをえないのが、デモクラシーの時代であるとトクヴィルはいう。
そのような時代にあって、平等・不平等をめぐる絶えざる異議申し立てこそが、歴史のダイナミズムを生み出していく。逆に、それまでの上下の権威構造は音を立てて崩れていく。トクヴィルは、このような意味における「平等化」を人類の不可逆な趨勢であるとした。
もちろん、19世紀を生きたトクヴィルの目の前にあった世界は、21世紀の世界とは大きく異なっている。トクヴィルが主として想定したのは、西洋諸国内における、身分制秩序の崩壊と、それがもたらす民主革命であった。しかしながら、トクヴィルが生み出した概念は、西洋諸国を超えうる射程を持っているし、さらに一国内の秩序はもちろん、国際秩序にも適用可能である。そうだとすれば、現在の世界で起きていることは、トクヴィルのいう「平等化」の革命が、グローバルなレベルで展開しているものであると言えなくもない。
言い換えれば、現在、世界で生じていることは、グローバル化により、これまでの世界秩序が動揺し、とくに先進国と第三世界の間の壁が崩壊していく過程である。新たな平等意識に目覚めた非先進国の人々は、これまで自らを従属化させてきた既成の権威の構造に異議申し立てを行い、より平等な秩序のあり方を模索するようになる。
この波は、各国内部にも波及する。これまで人々の想像力を阻んできた国民国家の壁が崩れることで、人々は否応無く、世界の人々と自分たちの平等・不平等の意識に目覚めざるをえなくなる。逆に、これまでは国民という枠で相対化されてきた、一国内の不平等も、より眼に見えやすくなる。各国内における平等・不平等をめぐる対立や紛争が激化するのも、新たなる「平等化」の時代の特徴であるといえるだろう。
このように国際的にも、国内的にも「平等化」が進み、新たなる政治的意識に目覚めた人々が、声をあげるようになる。あるいは、逆に、自分の声がしかるべき他者に届かないことに、大きな不満を感じるようになる。そうであるとすれば、グローバルなレベルでの「平等化」が進む時代に、国際的にも、国内的にも〈政治の時代〉が到来することは何ら不思議ではないだろう。
トクヴィルがいう「平等化」の時代とは、人々の平等が実現し、安定した秩序が構築される時代ではない。むしろ、人々の平等・不平等をめぐる意識が活性化し、結果として異議申し立ての声をあげた新たな勢力が政治の舞台に上がり、既存の秩序が動揺していく時代なのである。「平等化」の時代は、同時に〈政治の時代〉である。
アメリカ政治の硬直化とオバマの出現
既に指摘したように、このような時代において、政治はむしろ機能不全に陥っている。
ザカリアの本に戻ろう。彼の問題意識は、まさに内政・外交の両面にわたる、アメリカ政治の機能不全であった。世界において、「その他すべての国の台頭」は著しい。しかも、かつてない全地球規模における政治的覚醒が見られる。このような新しい状況に対し、アメリカが有効に対応しているかといえば、そうではない。
ザカリアに言わせれば、このような状況において、アメリカが一方的にその意思を他の国々に押し付けることはますます難しくなっている。求められているのはむしろ、民主性、機動性、開放性、相互接続性が高い混成的な国際システムとつきあっていくことである。秩序はもはや、先進国によって上から与えられるものではない。ボトムアップ方式のネットワーク型秩序の時代が到来しつつある。そのように考えるならば、ブッシュ政権による「ユニラテラリズム」(単独行動主義)」とは、まさにこのような新しい世界秩序に対する拒絶に他ならなかった。
その意味からすれば、アメリカはたしかに世界をグローバル化したが、反面において、自分自身のグローバル化をし忘れたと言える。結果として、アメリカは大きな島国のままである。世界の国々はグローバル化した世界に対して自らを適応していく必要を認めているが、アメリカだけはその必要を自覚していない。自国こそが世界のすべてであると信じ、あるいは自国の外への関心を失い、自らの内へと閉じこもろうとしている。ザカリアはこのように警鐘を鳴らす。
翻って、アメリカの国内政治も嘆かわしい。ブッシュ政権時代にあらわになったのは、かつてないほどの社会的分断であった。教条的なイデオロギー的対立が深まり、ネガティブキャンペーンが生き交った。非妥協性こそが、この時代の政治の最大の特徴となったのである。
しかしながら、現代のように、多極化し複雑化した世界に対応していくためにも、政治システムの柔軟性は不可欠である。幅広い連合を作りだす能力と、複雑な問題を解決する能力こそが、現在の政治に求められている。ところが、現実のアメリカ政治は、このような能力を失い、大規模な妥協を成立させることができなくなっている。
そうだとすれば、バラク・オバマの登場の意味は明らかであろう。ザカリアの本には、とくにバラク・オバマについての言及はない。しかしながら、オバマがいう「希望」の内容が、何よりもまず、分断の進んだアメリカ社会に再度、統合と連帯を取り戻すことであることを考えれば、オバマの出現の歴史的意味は明らかであろう。
オバマは、特定の信念の主張よりも、和解と融通と順応の姿勢を重視している。それも、単なる妥協の必要性という以上に、アメリカの建国以来の理念が、「多から一へ(E pluribus unum)」であり、多様な出自、多様な価値観を持つ人々の相互の寛容と共生への意思こそが、アメリカ社会の本来の伝統であるというように、アメリカ社会の正当性の再確認として、多様性の和解と寛容を強調していることが重要である。
オバマがこのような歴史的課題を担うに至ったことには、必然性があるだろう。アメリカ史上初の黒人大統領であるオバマの実父はケニア人であり、しかもインドネシア人の養父を持ったことから、自らもインドネシアで幼少の時期を過ごしている。アメリカの政治家としては、きわめて稀なキャリアを持ち、アメリカをその外部から見る視線を持っていると言えるだろう。
オバマの外交政策については、まだ予想が難しい。ただ、少なくとも多極化の進む世界に適応すべく、より現実主義的な政策を取っていくことは間違いない。失ったアメリカのリーダーシップを回復すべく努力するであろうが、そのための方策は軍事面を否定しないものの、より洗練され、国際協調に開かれたものになるはずである。
いずれにせよ、外に対しても内に対しても硬直し、柔軟性を欠いたアメリカ政治に、「大いなる妥協」をもたらすことが、オバマ新大統領に求められている。そのために必要なのが、まず何よりも正当性となる理念であることも、オバマ自身の政治スタイルが示している。平等・不平等をめぐる対立が激化し、それが政治の非妥協性と硬直をもたらしたアメリカにおいて、オバマはその克服の課題を担わされた大統領なのである。
日本政治の行き詰まり
アメリカ政治の行き詰まりの原因が、平等・不平等をめぐる対立が激化するなか、社会の分断化が進んでいることに対し、政治が非妥協性と硬直性によってしか対応できなかったことにあったとすれば、日本政治の行き詰まりには、異なる原因がありそうである。
数年来の日本政治の停滞の原因としては、衆参両院のねじれをあげる人が少なくない。たしかに衆参両院において異なる政党が多数を占めることで、意思決定に大きな困難が生じたことは否定できない。
しかしながら、問題を制度にのみ起因させることは、正しいとは言えない。アメリカにおける大統領と上下両院の多数政党とが対立する「分割政府」、フランスにおける大統領と首相の政党が異なる「コアビタシオン」、ドイツにおけるキリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党の「大連立」など、相異なる民意が制度的に代表され、対立し合う勢力の緊張が意思決定を困難にする事例はけっして少なくないからである。
社会が激しく変動する状況において、民意が一見したところ相矛盾するようなかたちで代表されることは、デモクラシーにとってけっして異常な事態ではない。むしろ、その「ブレ」にこそ、微妙な民意が繊細に表現されているとも言える。
そうだとすれば、問題とされるべきは、変化する民意や、それを異なった政治勢力によって代表させる制度ではない。責められるべきは、そのような多様なかたちで代表された民意を統合し、一貫性のある政策へと転換することのできない政治システムにある。
過去の日本政治を特徴づけてきたのは、社会の多様な利害を自民党という一つの保守政党の内部において調整し、これを、国対政治による他の諸政党との交渉で補完する仕組みであった。その場合、明確な理念の対決を通じて表現されるフォーマルな意思決定や妥協よりも、インフォーマルな、個別的な状況に基づく意志決定や妥協が優先された。
このことを象徴的に示しているのが社会保障分野である。日本は長らく「小さな福祉国家」として知られてきたように、社会保障支出は一貫して大きくなかった。国家による所得再配分を核とする社会保障は、所得の強制的な移転を必然的に伴う以上、それを正当化する理念が不可欠である。これに対し、個別的な産業政策や公共事業においては、政治家や官僚の裁量の範囲が大きい。日本政治は、前者よりも後者を優先した政治を行ってきたと言えるだろう。
このように個別的な裁量や妥協を主たる手段として進められてきた日本政治は、平等・不平等をめぐる対立が激化し、社会諸集団間の分断が可視化した今日、特有の困難に逢着している。この困難は、アメリカ政治を特徴づけた教条的な対立による非妥協性によるものではない。むしろ、異質な利害間の対立を対立として明確に位置づけることなく、個人的な妥協を繰り返した結果としての「なし崩し性」にこそ、原因がある。
衆参のねじれが明確な理念対立に結晶化せず、いつまでたっても明確な政党間の対立軸の萌芽すら見えてこないのは、その「なし崩し性」の現れであると言えるだろう。過去数年来、年金、後期高齢者、介護保険といった社会保障分野で問題が噴出し、政治の機能不全をあらわにしているのは、けっして偶然でも、一時的な現象でもない。それらはまさに、日本政治の脆弱性を象徴的に示した事例であった。
大いなる妥協
グローバル化という新たな平等化の波が押し寄せ、平等・不平等の問題が噴出する現代において、政治のはたすべき役割はいよいよ大きい。これまで声をあげなかった人々が自らの存在を主張し、異議申し立てを行う時代にあって、政治に求められるのは、柔軟かつ民主的にこれらの主張に向き合い、新たな正当性の理念の提示によって、幅広い連合を形成することにある。一言でいえば、社会の連帯を可能にする「大いなる妥協」を生み出すことこそ、政治に期待される役割である。
しかしながら、現実の政治はグローバリズムの波に翻弄されるばかりで、このような期待に応えてはいない。アメリカの場合、大いなる妥協を阻んでいるのが、教条的なイデオロギー対立による政治の硬直化であるとすれば、日本の場合は、あまりに個別的な妥協の繰り返しによる政治の矮小化が、大いなる妥協を難しくしている。
しかも、アメリカの場合、困難の巨大さもさることながら、政治に求められるものをよく自覚した新たな政治的リーダーが出現している。オバマ政権がはたしてこの危機を乗り越えられるかは、まだわからない。ただ、アメリカ政治の場合、問題の所在は明らかであり、問題克服の処方箋も示されている。あとは、この処方箋の効果が示されるのを待つばかりであろう。
対するに日本の場合、問題の処方箋はもちろんのこと、問題の所在の理解においてすら、いまだ国民的な合意にはほど遠い状況である。ただ明らかなのは、平等・不平等をめぐる対立が激化するなか、政治は柔軟かつ機動的に対応するのでもなく、かといって教条的かつ非妥協的な姿勢を示すのでもなく、端的に決定不能に陥り、漂流を続けているということである。政治は矮小化・縮小化の道を進むばかりである。
現代における〈政治の貧困〉をもたらしているものは、新たなる平等化の波によって、政治的に声を上げる人が増え、政治的なアクターが増えるなか、共通の理念的土台の不在が露呈していることによる。新たな民主政治の指導者に求められるのは多様な声に対する柔軟な対応力であり、コミュニケーション力である。言い換えれば、正当性の理念の提示を通じて、調停者、媒介者としての役割をはたすことが、政治の新たな使命である。
このような意味における調停者、媒介者を欠いた日本政治において、噴出する不満は、「改革」と「抵抗勢力」、「勝ち組」と「負け組」、あるいは「団塊の世代」と「ロスト・ジェネレーション」といった、一見わかりやすいが、なんら新しい対話の可能性を生むことのない不毛な擬似対立の回路に流れ込んでいる。
求められているのは、利害の対立する人々が、それでも共有できる社会像である。現在、多くの日本の有権者は、社会保障の充実を求めながら、それを可能にするための増税には反対しているという。この矛盾の背景には、深刻な行政不信が存在するし、「さらにいえば、「自分たちの税金」によって支えるべき「自分たちの社会」のイメージの希薄化がある。
自分たちで支え合うことで可能になる社会像を提示するのは、本来、政治指導者の役割である。が、当の麻生首相が、医療保険に関して、「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金をなんで私が払うんだ」と言ったという。ここには、新たな社会的連帯を可能にする支え合いの構想はおろか、問題意識すら感じられない。
政治指導者の現状がこのようなものである以上、高まる政治的な声に対し、日本政治が消極的な対応しかせず、結果として収縮の一途を歩んでいるのも当然であると言えよう。
新たな声を受け止めたうえで、大いなる妥協を生み出すこと。これなしに、〈政治の貧困〉からの脱却はありえない。昨年末の日比谷公園における「年越し派遣村」は、新たな政治的結集の可能性と同時に、多くの既成政治家の対応の受動性・消極性を露呈した。アメリカにおいて、その周辺部から新たなる連帯と統合のリーダーが出現したように、日本においても、新たな政治的リーダーシップを広く社会に求めていくしかないのかもしれない。
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