現代日本社会に蔓延する消耗感の原因の一つに、「言葉の使い捨て」がある。ある言葉に注目が集まり、メディアによって洪水のように使われた後、賞味期限が過ぎたかのごとく忘れ去られる。いつまでもその言葉にこだわろうものなら、時代遅れと冷笑の対象になりかねない。「希望」という言葉も、そんな言葉の一つになるのだろうか。
2007年の自民党総裁選にあたって福田康夫氏が政権公約に「希望と安心のくにづくり」を掲げたことを、どれだけの人が記憶にとどめているだろうか。さらにいえば、同じ年の初めに、いまとなってはブラックユーモアに聞こえなくもないが、日本経団連が「希望の国、日本」なるビジョンを発表していることも。
このように指摘するのは、同じく希望という言葉を自らのキャッチフレーズとする、アメリカ新大統領バラク・オバマのことを思わざるをえないからだ。オバマのいう「希望」とは実体のない言葉だという批判を、日米のいずれでもよく耳にする。しかしながら、04年のアメリカ民主党大会以来のオバマ演説をよく読むならば、そこに込められれた思考の厚みを感じることは難しくない。少なくとも、彼が希望という言葉をもう少し大切に使おうとしていることだけははっきりしている。
オバマは繰り返し、希望とは「安易な楽観」ではないと強調している。それでは両者のどこが違うのだろうか。コーネル大学准教授で人類学者の宮崎広和氏は、民主党の指名を獲得したオバマが、08年8月28日の受諾演説を聖書の「ヘブライ人への手紙」の一節で締めくくったことに注目している。(※1)
その一節とは「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」である(10章23節)。これは当然、その後の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11章1節)と結びつき、信仰と希望の不可分性を表現している。希望とは、目に見えない何かを望み、その実現の日まで耐え忍ぶことを要求するものなのである。
ちなみにオバマは、08年1月3日のアイオワ州の党員集会に勝利した後の演説で、次のように言っている。「希望とは、私たちの中にあって、何かよりよいものを目指し、それに向けて働き、闘う勇気さえあれば、すべての証拠がそれを反証するにもかかわらず、それが我々を待っているのだ、と主張しつづけるものにほかなりません」
さらに、09年1月20日の大統領就任演説では、トマス・ペインの言葉を引用しつつ、「もう一度、希望と美徳を持って、思い切って冷たい流れに立ち向かい、どんな嵐が来ようと耐え忍びましょう」と金融危機を前にしたアメリカ国民に訴えかけた。
宮崎氏は、オバマが希望という言葉を、ここぞという重大な局面で使っていると指摘する。そのポイントは、人々の思考を過去から未来へと方向転換させることにあり、オバマの希望は、社会や経済の困難な現実に向き合うための希望として、一人ひとりの個人に反復複製されていったという。しばしば実体がないとされるオバマの希望だが、言葉の力を通じて人々の意識を変えたことが、その実体であったと宮崎氏は説く。
政治の一つの役割は、「私たちの中にある」(オバマ)、すなわち、私たちがすでに潜在的に望んでいるものを、言葉を通じて目に見えるように表現し、そのことによって一人ひとりの「よりよいもの」への変革の「希望」を、社会全体の変革へと結びつけていくことにある。その意味で、政治には希望が不可欠である。
もちろん、オバマ政権が未曽有の経済危機を乗り越えていけるかどうかは、予断を許さない。オバマの喚起した希望が絶望へと暗転することはけっしてないと、誰も言い切ることはできない。しかしながら、少なくとも、苦境を耐え忍び、困難にともに立ち向かう「勇気」を国民に求める言葉が、現代アメリカ政治になお存在するということ、そしてその言葉が少なくとも一度は、広範な国民に受け止められたということだけでも、現代の奇観といえなくもない。
それに対し、日本政治の現状はどうだろうか。日本政治は、はたして国民に訴えかける言葉をもっているのだろうか。
もはや、麻生首相をはじめとする政治家の個々の言葉をとりあげて、論評しようとは思わない。ただ、ここに「『日本人が望む社会経済システム』に関する世論調査」なる、興味深いデータがある。
北海道大学の「市民社会民主主義研究プロジェクト」と「福祉レジーム研究プロジェクト」による全国調査によれば、調査期間である07年11月の段階で、「日本のあるべき社会像」として実に6割のもの回答者が、北欧型の「福祉重視の社会」を選択している。一方、かつての日本のような「終身雇用重視の社会」は約3割、そしてアメリカのような「競争・効率重視の社会」は7%に満たなかったという。
この調査を見る限り、現在の日本人が希望する社会の姿は、かなりはっきりしている。しかしながら、そのような社会を実現するための道筋については悩ましい結果を示している。すなわち、社会保障の財源として消費税率の引き上げを「やむを得ない」と答えた人は、17.5%と少数派にとどまったのである。もっとも多かったのは、「国民負担以外の方法」であった。
この結果をどのように解釈すべきだろうか。社会保障の充実は求めるが、その財源となる税負担はいやがるという矛盾した態度と理解することも、あるいは可能かもしれない。しかしながら、この結果はむしろ、社会保障の充実を求めつつ、あえてその税負担を引き受けるには、あまりにも行政不信が強いととらえるべきではないか。実際、「改善すべき日本型制度」として、「公的な社会保障を強化すること」についで多かったのが、「官僚の力を弱めること」であった。
技術用語だけの現状
さらに、この調査自体によっては示されていないものの、問題の背景には、私たち一人ひとりが現在直面する不安定さやリスクを広く社会で共有し、そのために必要な財源を負担し合っていくための、そもそもの連帯意識が希薄であることを指摘できるだろう。政治学者の宮本太郎氏はその原因として、これまで日本社会において、雇用・社会保障の枠組みが業界別に仕切られており、「横の分断」が支配的であったことを指摘している(※2)
この調査結果が悩ましいのは、日本人の多くが潜在的には望んでいるにもかかわらず、行政不信や、あるいは国民相互の不信により、期待する社会を実現するための道筋を見つけられないでいることがうかがえるからである。望んでいるにもかかわらず、実現に向けての第一歩を踏み出せない、あるいはむしろ、その第一歩をどの方向に向けて踏み出すか迷い続けていることが如実に示されているからである。このことが、まさに政治の責任であることはいうまでもあるまい。
何よりも問題は、増税するか、あるいは景気回復を待つか、というような手段レベルの議論に比べ、いったいどのような社会を目指すのか、という目的をめぐる議論がさっぱり活性化しない点にある。現在の困難を乗り越えるために、いかなる希望をもち、そのために何を耐えなければならないのか。あるべき社会の姿を説得力を持って語る言葉なしに、技術的な用語だけが横行しているのが現状である。
希望とは、幸福や安心と比べても、未来への志向を強くもった言葉である。まだはっきりとは見えなくても、いま、すでに「私たちの中にあって」、未来へと私たちを押し進める力をもっているのが希望である。そのような希望という言葉を「使い捨て」にする社会には、それこそ希望がない。
政治家に希望を語る言葉を期待するのが、そもそも間違っているという声もあろう。しかしながら、格差が拡大し分断の広がる社会において、ともに負担を分かち合っていくにあたって、希望なしに、いかにそれが可能になるのか。あるべき社会への変革の道筋を、政治家が自分の言葉と人格を通じて体現することを、なぜ期待してはいけないのだろうか。
「政治の力」の復活を
もちろん、社会に共有される言葉とは、一人の個人の独創によるものではありえない。その意味で、希望を語る言葉もまた、特定の個人のみに期待することは間違いである。だとすれば、希望を語る言葉を政治家に期待するのではなく、そのような言葉をもった人々こそが政治を担うようになればいいのである。希望を語る言葉を取り戻すことは、社会全体として取り組むべき課題である。
私の所属する東京大学社会科学研究所では、05年度から4年をかけて「希望学」という研究プロジェクトを行ってきた。間もなくその成果を世に問うことになるが、私がいまあらためて思うのは、大切なのは安易に希望回復の手段を語ることではないということである。「こうすれば希望を取り戻せますよ」というような、誰にでもあてはまるレディーメードな答えがあるはずがない。
より大切なのは、一人ひとりの個人の希望という小さな「窓」に映し出される、現在の時代と社会をとらえ直すことであり、さらに社会の希望を語るための公共の言葉を少しでも探り続けることである。
言葉を大切にしない国とは、言葉を介して人と人とが信頼関係を育み、そのような信頼に基づいて社会を築いていくことのできない国である。公共の言葉を使い捨てにする限り、私たち一人ひとりの思考や思いは宙に舞い続ける。
あるべき社会像を積極的に示し、そのために必要な負担を国民に求めることができるとき、「政治の力」は復活する。
私たちはまだ、その希望を捨てるべきではないと思う。
※1)「オバマの希望」(東大社研・玄田有史・宇野重規編『希望のはじまり
−流動化する世界で』〈東京大学出版会、近刊〉に所収)
※2)『福祉政治』(有斐閣)
(朝日ジャーナル 第114巻第19号 通巻4942号 2009年4月30日発行)
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