現代の民主政治は、有権者の政治に対する不信感を一定程度、織り込むことで成り立っている。政治家が100パーセント公益のために働いていると信じる人など、今日となっては、ほとんどいないだろう。マニフェストをはじめ、政党や政治家の語る言葉やプログラムに、「自分の考えていたことはまさにこれだ」と共感する人も、残念ながら多くないはずだ。
それでも政治が成り立ってきたのは、「そんな政治でも、世の中、何とか動いていくはずだ」という、ある意味であきらめのコンセンサスが存在したからであり、また、ある程度、それが事実だったからである。人々は職場や家庭の日々の会話で、あるいはインターネットの上で、政治への不満を語っているが、こと投票となると、ある種のあきらめのコンセンサスが支配し、それが政治を奇妙に安定させるというメカニズムが、ついこの前まで機能していた。
ところが、現在の日本の各地で感じられるのは、これまでとははっきり違う空気である。政治に対する不信感がなくなったわけではない。政治への距離感が縮まったわけでもない。ただ、「政治をこのまま放っておいてはいけない」「政治をどうにかしないといけない」という声が、日本の至るところで燎原の火のごとく聞かれるようになっている。
その背景にあるのはおそらく、格差や貧困の拡大、地域社会の疲弊、年金や介護をめぐる将来への不安、国際社会における日本の孤立、安全保障面での脅威など、ある種の「行きづまり」の感覚であろう。これらの問題に対し、個人や民間レベルでの努力については、「もうある程度、やることはやったが、それでもどうにもならない」というのが、実感ではなかろうか。残されたのは、法律や制度の大幅な変更、さらに財源問題を含め、社会の「しくみ」から根本的に変えていくことである。そうである以上、「政治をどうにかしないといけない」ことになる。
有権者は、政治への不信感を持ちながら、それでも政治に対して切羽つまった期待を抱いている。そんな有権者が何よりも求めているのが、「リアルさ」である。ただ、「あれもやります、これもやります」というだけでは、有権者は「リアルさ」を感じられないだろう。しかしながら、ただそれを批判するばかりでも、「リアルさ」にはつながらない。
実質ひと月以上におよぶ、この長くて暑い(熱いではない)選挙戦の期間中、有権者は何らかの「リアルさ」を求めて、政党と候補者一人ひとりをじっと見つめていたはずである。すぐに頭をもたげてくる政治への不信感と、あきらめのコンセンサスの誘惑に必死に抗しながら、有権者は、政治への期待を捨てず、政治を考え続けた。
あとは政党と一人ひとりの候補者が、このひと月以上に及ぶ有権者とのコミュニケーションから何を学び、得たか、どう対応したかである。その評価は間もなく出るはずである。
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