「友愛」という日本語は、漠然とした、つかみどころのないものに聞こえる。だが、元であるフランス語の「フラテルニテ」は、イメージがはっきりした、非常に強い言葉だ。自由、平等とセットでフランス革命の理念になったが、本来の意味は「兄弟愛」「同志愛」で、特定のメンバー間の団結を指す。つまり排除の論理とも裏表であり、ナショナリズムとも親和性がある。右にも左にも振れ、共生にも排除にもつながる。両刃の剣のような概念だ。
鳩山由紀夫首相は、友愛を、自由と平等の行き過ぎを抑えるものと見なしているようだ。汎ヨーロッパ主義を提唱したクーデンホーフ・カレルギーは、自由の理念が行き過ぎると無限の競争に、平等を徹底的に追求すると共産主義や国家社会主義に行き着く、それを防ぐものが友愛だと考えた。同じく友愛を掲げた祖父の鳩山一郎元首相も、社会党・共産党や労組とは一線を画しながら、吉田茂の自由党路線とも対抗した点で、やはり自由と平等の中道を行った。
ただ、鳩山首相は、祖父・一郎氏の友愛をそのまままねるのではなく、現代的な再定義を行っている。鳩山氏は本質的には自由主義者だが、格差・貧困問題を重視し、自由の行き過ぎである新自由主義を激しく批判する。一方で、平等をあくまで追求する社会民主主義的な伝統にも与せず、民主党内の社民主義勢力からも距離を置いてきた。鳩山氏自身にも新自由主義的な部分がある。友愛を「自立と共生の原理」と規定し、自立とは自己責任、自己決定だという。社民主義的な「共生」と新自由主義的な「自立」が共存し、その矛盾や緊張を友愛という言葉でくるみこんでいると言える。
これを思想的なあいまいさと見るか、あるいはしたたかな戦略性の表れと考えるべきか。現段階では後者と考えたい。民主党には小沢一郎幹事長に代表される地域重視の保守主義、旧社会党系の社民主義、さらに新自由主義に近い勢力など、様々な考え方が混在している。友愛という「ゆるい」言葉だからこそ、全員をなんとかつなぐことができる。党の接着剤である。
今の日本では、リベラルも保守も総崩れを起こしている。社民主義は弱体なままだし、新自由主義も中途半端に解体し、保守も何を守るべきなのかがわからない。国民一人一人の思いも分裂している。一方では平等を求めながら、他方ではなぜそのために税負担をしなければならないのかという葛藤がある。どんな回答を示しても、100%の納得は得られない。みんなもやもやを抱えている中で、お互いに支え合っていくためには、この社会を共につくっていく仲間だという共通の認識、基盤が必要だ。それが友愛ということなのだろう。
だが、友愛が題目だけに終わっては意味がない。鳩山路線を持続させていくためには、まず民主党自身が、友愛とは何なのかを、正面から議論すべきだ。極端な貧困を許さないことだとか、地域社会の荒廃を食い止めることだとか、いろいろな考え方が出てくるだろう。そこでバラバラになるのではなく、議論を通じて、友愛についての共通の定義、基盤をつくっていく。そのプロセスが、民主党が真に国民から信頼される政党になるために必要なのではないか。
(聞き手・尾沢智史)
(朝日新聞「オピニオン」 2009年11月22日朝刊)
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