衝撃的なアメリカ中間選挙からはや一カ月以上が過ぎた。各種の媒体にあらわれた選挙の総括を読むと、民主党の大敗、それも歴史的な大敗であるという評価が一般的である。また、この結果が、オバマ政権の下で進められた健康保険制度改革や金融機関救済策などに対する反発の現れであり、回復しない経済状況や雇用についてのいらだちの結果であるという論調も共通している。他方で、今回の選挙結果に大きな影響を及ぼしたティーパーティー運動について注目する論考も多く、「オバマの失敗、ティーパーティー運動の台頭」というあたりが、今回の選挙総括の基本的なトーンであると言えるだろう。
これらの評価について、筆者に大きな異論があるわけではない。とはいえ、よく考えてみると、これらの個別の印象が、大きな全体像を描きにくいことにも気づく。少なくとも、一つひとつみれば「なるほど」と思えることがらでも、関連させてみると矛盾にみちていることがわかる。また、より長期的な視点に立つとき、この結果がいかなる意味をもつのかも、いまひとつはっきりしない。したがって、本稿では、今回の選挙から少しばかりの時間がたった現時点において、選挙結果の表層ではなく、むしろその底流にあるものを思想的な角度から考察してみたいと思う。
オバマ連合の解体
まずは、選挙結果について確認しておきたい。選挙結果の確定に時間がかかるのもアメリカらしいが、11月2日に行われた中間選挙の結果がはっきりしたのは、12月8日のことであった。この日、接戦になっていた下院のニューヨーク州第一選挙区とミネソタ州知事選で、それぞれ共和党候補がようやく敗北を認めた結果、定数435の下院は、共和党が改選前より64議席増の242、民主党は193となった。全米50州の知事は、非改選も含めて共和党29、民主党20、無所属1である。すでに確定していた上院においてこそ、非改選をあわせて民主党が53(改選前から6議席減)、共和党が47と、民主党がかろうじて過半数を守ったものの、その党勢が大きく後退したことは間違いない。とくに下院の結果を見れば、民主党が躍進した2006年中間選挙と、2008年選挙の増加分を、一気に吐き出したことがわかる。オバマ大統領当選をピークとする民主党の復調が、あとかたもなく消えてしまったのである。
ちなみに、今回の中間選挙とよく比較されるのが、クリントン大統領時代の1994年の中間選挙である。この選挙においては、ニュート・ギングリッジ率いる共和党が「米国民との契約」を掲げて圧勝し、下院では54議席を民主党から奪うことに成功した。今回、共和党は64議席を増やしたということで、オバマ大統領にとってみれば、クリントン元大統領を上回る痛手を受けたことになる。クリントン元大統領の場合は、中間選挙の敗北後、政治姿勢を大幅に中道よりに変え、ギングリッジとの関係を再構築することで何とか劣勢を持ちかえし、ついには大統領再選を勝ち取ったわけだが、オバマの場合はその道も容易ではない。
というのも、今回の選挙結果がオバマにとってとくに痛いのは、2008年の選挙で誕生した多くの中道系の新人議員を失ったからである。これらの議員たちは、うまく成長していけば、オバマを支える大きな政治基盤になったはずである。しかも、落選した中には、新人ばかりでなく、「ブルー・ドッグ・デモクラッッ」と呼ばれる中道派のベテラン議員が多数含まれていた。結果として、議会内民主党では相対的にリベラル派の影響力が高まることになる。「小さな政府」を過激に主張するティーパーティー運動の躍進を受けた共和党との間に、妥協が成り立つ余地はますます小さくなったと言えるだろう。アメリカ政治の分極化はますます進み、左右対立を越える大いなる妥協を主張してきたオバマにすれば、気づいてみればその基盤が完全に失われてしまったのである。
それでは、なぜこのような結果になったのだろうか。リベラル派の法哲学者として著名なロナルド・ドゥオーキンは、『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』の12月9日号で次のような指摘をしている。「選挙結果は、ひどく気のめいるものであった。その結果はすべて予想された通りだったが、なおわれわれを深く悩ませるものである。なぜ、かくも多くのアメリカ人は、あえて自分の最善の利益に反した投票をするのであろうか。不幸に対して、それまで以上の保護を与えてくれる健康保険法案に、彼らはなぜ憎悪を叫ぶのであろうか。景気刺激策にしても、それがなかったら悪い経済状況をさらに悪化させるだけである。自分たちより金持ちへの課税を強化することで、自分の税負担も軽減されるはずの提案になぜ反対するのか」。
このような感想は、オバマをなお支持する人々にとって共有されるものであろう。実際、この一年のオバマの実績は、むしろ画期的なものがある。民主党の悲願でもあった健康保険制度法案をはじめ、新政権は次々に重要な法案を成立させた。外交においても、米ロ核軍縮合意など、重要な成果をあげている。大型の景気刺激策については、いまだその効果が出ていないものの、政策と経済状況との間にはずれがある。もう少し時間が経たないことには、その有効性は検証されえないだろう。そもそも、ティーパーティー支持者を愕然とさせたという連邦政府の巨額の財政赤字は、オバマ政権によるものではない。むしろ、減税策を推進した前任のブッシュ政権の責任である。憤激をかった大企業の救済も、ブッシュ政権にはじまったことである。たしかに、メキシコ湾における石油流出事故への対応や、アフガン戦争の収拾について、オバマ大統領が十分な指導力を発揮しているとは言えず、多くのリベラル派の失望をかったことは否定できない。とはいえ、今回の選挙における「オバマ連合」の崩壊ぶりは、はたして政権のパフォーマンスに対する評価として、どれほど適切なものだったかについては疑問も残る。
ここで「オバマ連合」といったのはもちろん、フランクリン・ルーズベルト大統領による「ニューディール連合」を念頭に置いたものである。この連合は、ルーズベルト大統領のリーダーシップの下に、労働者、南部の白人、イタリア系・ユダヤ系等の白人マイノリティー、カトリック、黒人等のさまざまな集団を、社会的弱者の福祉と権利を増進したリベラルな公共政策でまとめあげたものであり、当時におけるマイノリティーの大連合であった。よく知られているように、政治的な名門に生まれたルーズベルトは、自身は保守的な価値観をもった政治家であったが、第二次大戦という政治的危機に際して新たな政治勢力の結集をはかり、これに成功したのである。2008年大統領選におけるオバマの当選もまた、初の黒人大統領の下、マイノリティー勢力の結集による、新たなリベラル派の大連合を実現したかに思われた。
しかしながら、各種報道機関による分析をみる限り、「オバマ連合」は見る影も無く消え失せてしまったようである。民主党は、伝統的な支持基盤である女性、中産階級、白人労働者、高齢者のいずれにおいても、共和党に負けている。無党派層においても、民主党は大きく共和党に遅れをとった。オバマ大統領選出にあたって力をもった無党派層の支持は、今回、はっきりとオバマに背を向け、むしろティーパーティー運動支持へと向かったのである。同じくオバマ躍進を後押しした、いわゆる「ミレニアム世代」を中心とする若者についても、今回の選挙では棄権に走ったとされる。ある意味で、「オバマ革命」を推進した人々の多くは、オバマに失望するか、少なくともそれを支えるのに疲れてしまったようである。実際、ティーパーティー運動支持者のうち、少なからぬ部分が、2008年にはオバマに投票している。
とはいえ、繰り返しになるが、人々が怒る連邦政府の巨額の赤字は、オバマ政権によるものではない。また、ティーパーティー運動支持者は、減税でメリットを受ける富裕層ばかりではなく、むしろ厳しい生活状況に苦しむ農民や小自営業者が多数含まれる。彼らの中には、実際には公的な社会保障なしには生活が成り立たない人々も少なくない。にもかかわらず、彼らは今回の選挙で、怒りに震えながら、連邦政府にノーをつきつけたのである。その意味では、ドゥオーキン教授の嘆きにも一理ありと言わざるをえない。
このような有権者の離反を、保守派による政治的宣伝の結果であるという声も散見される。たしかに2010年1月の連邦最高裁による、選挙広告に対する企業献金の上限撤廃の判断の影響は小さくないだろう。この結果、石油・銀行・保険などの大企業から、共和党への献金が増大したという。FOXテレビの番組司会者であるグレン・ベックの名を持ち出すまでもなく、保守系メデイアの攻勢も著しい。とはいえ、はたして、このような政治的宣伝の力だけで、2008年の「オバマ連合」は解体してしまったのだろうか。今回の中間選挙の結果は、もう少し長期的な視点に立たないと理解できないのかもしれない。
保守の時代が続いているのか
ここで本当に問わなければならないのは、アメリカにおいていまだに「保守の時代」が続いているのかどうかということである。この場合、「保守の時代」というのは、狭義には、1980年にロナルド・レーガンが当選して以降、クリントン政権の二期をのぞいて共和党出身の大統領が続いた時期のことを指す。より長いスパンでいえば、1964年の大統領選に、共和党から保守派のバリー・ゴールドウォーターが登場し、歴史的敗北を喫した時点から、政治運動としての前史が始まっている。この衝撃から、現代アメリカ保守主義復興の運動が本格的に始まったからである。以後、保守勢力は長期的視点に立った組織形成、人材の育成、資金源の確保、そして思想的基盤の整備を進めてきた。レーガンの当選は、その結果にほかならない。この間、60年代末から70年代にかけて、リベラル派内部での分裂が深刻化したこともあり、やがて、政府の積極的な役割を強調するリベラルな福祉国家に反対する勢力が、市場自由主義から宗教的保守主義まで総結集することになる。このようにして長期にわたる「保守の時代」が始まったのである。
これに対し、クリントン政権の発足は、新しいタイプのリベラリズムの時代を予感させるものであった。この時期、組織的には労働組合に依存し、政策的には旧来型の福祉国家のあり方に固執した伝統的なリベラリズムに対して、リベラル派の新たな世代が登場する。クリントンやゴアに象徴される新世代は、性やライフスタイルをめぐる社会的な争点についてはリベラルな姿勢をとりつつ、経済的にはむしろ、アメリカ経済の再生やその国際的競争力の向上を掲げて、市場メカニズムの活用や、有効な人的投資戦術を積極的に推し進めた。クリントン政権で労働長官をつとめたロバート・ライシュのような知識人もまた、このような新世代のリベラルを理論的に支えた。
しかしながら、すでに指摘したように、クリントン政権は最初の中間選挙でつまずき、再選に成功したとはいえ、大きくその理想主義的色彩を後退させてしまった。しかも2000年の「疑惑の選挙」によってジョージ・ブッシュが大統領に選ばれ、9・11の同時テロ事件をへて大統領を二期つとめることで、クリントン時代における新たなリベラルの胎動は遠い過去の記憶になってしまったかに思われた。
これに対し、2004年の民主党大会演説「大いなる希望」によって彗星のように登場し、08年には大統領指名を勝ちとったのが、バラク・オバマであった。ハーバード・ロースクール出身のエリートでありながら、シカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして頭角を現したオバマが政界に進出し、黒人初の大統領になることで、再度、リベラルの復活の予感が高まったのである。
その前提にはもちろん、ブッシュ大統領下でのイラク戦争の泥沼化とリーマンショックがあった。この結果、長期にわたった保守革命の遺産は食い尽くされ、ようやく「保守の時代」に終わりが告げられたかに思われたのである。アメリカ国民は、新たなる混迷の時代を打開するのに、リベラル派の大統領を選んだ。それも、少数派[マイノリティー]の出身でありながら、自ら教壇で憲法を講じ、アメリカの立憲主義の正統を継承するかに見える、リベラル派の大統領を選んだのだというのが、少なくとも2008年の段階でのアメリカ内外での共通理解であった。
これに対し、今回の中間選挙の結果は、このような理解を大きく裏切るものであった。すでに指摘したように、オバマの再選への道は容易でなく、一期限りで終わる大統領との予測も多い。それでは、今回の「リベラル復活」も、歴史の1エピソードに終わってしまうのだろうか。
このことを考える上で一つの参考にすべきは、連邦最高裁の人事であろう。2010年の5月、オバマ大統領がエレナ・ケーガンを最高裁の判事に任命したことに対し、上院共和党の強い抵抗がなされたことが話題になった。ハーバード・ロースクールの学部長時代に、大学構内での軍のリクルート活動への制限を支持したこと、さらに同性愛を公言する人間が軍に入隊することへの規制に反対したことが、共和党の強い反発を招いたのである。
結論としては、難産の末に、オバマ大統領はケーガンの指名に成功したわけであるが、この人事にしても、前任のリベラル派の判事の後継に何とかリベラル派を補充したに過ぎない。裁判所内部の思想分布は保守派とリベラル派の均衡状態が維持されている。それどころか、断固たる保守派の多い裁判官の顔ぶれを見る限り、現在の最高裁は第二次大戦後、もっとも保守的であるという評価も少なくない。少なくとも今回の指命にあたって、ケーガンの姿勢はきわめてリベラル色を押さえたものであった。中間選挙で民主党が上院での議席を減らしたことにより、今後、最高裁判事に欠員が生じた場合、オバマ大統領はますます厳しい判断を迫られることになるであろう。
あらためて強調するまでもないが、アメリカにおいて司法権のもつ政治的影響力は実に大きい。とくに、州知事の三分の二が共和党である今日、オバマ政権に対する州レベルでの抵抗は大きくなるばかりである。連邦と州が対立した場合には、係争は連邦最局裁に持ち込まれる。終身指名の連邦最高裁判事において保守の優位が続いていることは、アメリカ政治のもっとも根本的なフレームワークの部分で、「保守の時代」がいまだ終わっていないことを意味するはずである。その意味で、社会の根底のレベルで、社会全体の保守化のトレンドが逆転しておらず、オバマ政権は、このような全体的傾向の中で苦戦を強いられていると言えるだろう。
現代における「保守」の内実
しかしながら、同時に「保守」の内実もまた、問い直されてしかるべきである。すでに指摘したように、現代における「保守の時代」が始まるにあたっては、保守勢力の側でかなりの準備がなされていた。一方で市場志向のネオ・リベラリズムと、他方でより伝統的な家族観・宗教観に支えられた保守主義とが、同一の政治的立場に結集するのに成功したのは、かなりていねいな政治的議論の蓄積を踏まえたものであった。
一見すれば、極度に自由を重視する勢力と権威を強調する勢力が、互いに協力し合って政治運動を展開するのは難しいように思われる。これが可能になったのも、大きな政府を支えたリベラリズムに対する思想的反発が、両者にしっかりと共有されたからである。ただし、両者の反発のポイントは微妙にずれていた。ネオ・リベラルが、市場の合理性に反して介入を続ける政府の規制に反対したのに対し、保守派は、無限の進歩を信じて政府の力で社会を変えていこうとするリベラル派の傲慢に敵意を募らせたのである。これに加え、アメリカ社会に固有な草の根レベルでの個人主義と、反中央集権志向とが合流して、一つの保守勢力となりえたのである。
これに対し、現代においてなお続いているとされる「保守」の思想的内実はいかなるものであろうか。ティーパーティー運動の理論的指導者の一人と見なされるロン・ポール下院議員であるが、その思想は過激なまでのリバタリアン(自由至上主義)である。一貫して連邦政府の権限強化に反対するポールは、内政では福祉国家に反対するのみならず、連邦準備制度の存在や所得税までも否定している。外政でもイラク戦争に反対したポールは、国連やNATOからの脱退を主張している。このようなポールの過激な姿勢が、共和党の主流派はもちろん、はたしてティーパーティー運動支持者の間ですら、どれほど受け入れられているかは疑問である。
その意味でいえば、ポールのような過激なリバタリアンから、宗教的な保守派まで、かなりの幅のあるグループが雑居しているティーパーティー運動が、ボストン茶会事件という、課税に反対する歴史上のエピソードに依拠して、いわば、課税に反対するというただ一点を掲げることで現代の不満を総結集しているのは、象徴的であると言えるだろう。しばしば指摘されるように、ティーパーティー運動には、全体を代表するような指導者が欠けている。が、逆にいえば、だからこそ、この運動は一体性を維持しているのであり、仮に2012年の大統領選に向けてサラ・ペイリンを候補に一本化できるかと言えば、それも容易ではないだろう。
それゆえに、ティーパーティー運動に象徴される現代アメリカの保守主義に通底しているのは、多様な思想的背景をもったグループが、相互に対話をせず、むしろ無関心を貫くという姿勢であると言えるのではなかろうか。そうだとすれば、このようなティーパーティー運動に、いわば「乗っ取られた」かたちになる共和党もまた、今後、未来に向けての明確な指針を示すことは難しいだろう。したがって、「保守の時代」が続いているとしても、それは内部での解体と空洞化が進み、むしろ相互無関心によって維持されている「保守の時代」と言わなければならない。
しかも、現代の保守主義にとって、かっての保守主義にとっての明確なライバルであった、未来に向けての社会の自己変革能力を、楽観的と言えるほどにまで信じていたかつてのリベラリズムもまた存在しなくなっている。今回の中間選挙がはっきりとしたものになったのも、多様な保守勢力を結びつけるオバマヘの反発という触媒があってこそである。オバマに代表される国際性やエリート性が、人々の不満を結びつけるのに一役買ったことは間違いない。イラク戦争で傷ついてさらに内向きになると同時に、ワシントンやニューヨークの政治・経済エリートへの不信で凝り固まった人々が、オバマという「イコン」(それは、オバマ自身とは無関係であってかまわない)への反発によって結びついたのが、今回の結果であると言えるだろう。その限りでは、2008年の大統領選と10年の中間選挙は、同じコインの表裏(「イコン」としてのオバマの暴騰と急落)として理解すべきなのかもしれない。いずれにしても、現代における「保守」の内実が、むしろ雑居状態に近いものであることは強調しておかなければならない。
オバマとニーバー ── リベラルの苦境
対するにリベラルの側の内実はどうであろうか。ここでもう一度じっくりと考えてみなければならないのは、オバマとは結局、いかなる人物であるのかということである。今回の選挙を見ればわかるように、オバマの政策は、少なくとも現在までのところ、完全に選挙民によって否定されてしまっている。オバマや、下院議長をつとめ今後は院内総務になるナンシー・ペロシがいかに胸をはろうとも、彼らの政策は、その受益者にすら評価されなかったのである。明らかに現在の選挙民の求めているものと、彼らの志向との間にはずれが生じてしまっている。このずれをいかに理解すべきなのか。
ハーバード大学でアメリカ史を教えるジェームズ・クロッペンバーグの近著に『オバマを読む(Reading Obama, Dreams, Hope, and the American Political Tradition, Princeton University Press)』がある。この本の中でクロッペンバーグは、オバマは黒人初の大統領であると同時に、アメリカ史の中における三つの重要な潮流の結節点にある人物だと指摘している。第一はアメリカのデモクラシーの歴史であり、第二はウィリアム・ジェームズやジョン・デューイに代表されるプラグマティズム、そして第三は大学紛争の知的影響である。
よく知られているように、若き日のオバマはむしろ文筆によって身を立てようとした。その際に強く影響を与えたのは、ラルフ・エリソンの『見えない人間』のような現代黒人文学と同時に、オキシデンタル・カレッジ時代に学んだ米欧の政治思想史であった。この時期に彼は、アメリカでは、ジェファーソンやマディソンら建国の父たちの政治思想、エマーソンやソローらの超絶主義、さらにラインホルド・ニーバーらのプロテスタント神学の思想、ヨーロッパではトクヴィルやウェーバー、さらにニーチェについて学んだという。しかしながら、クロッペンバーグによれば、結局のところ、オバマが好んだのは、政治的な行動主義を活性化させるような教条主義よりはむしろ、エマーソン、ニーチェ、ジェームズ、ニーバーから学んだ、より懐疑主義的で、プラグマティックな態度であった。ここに、その後の政治家としてのオバマを特徴づける、ある種の現実主義と穏健主義の源泉を見ることができるだろう。
オバマを特徴づけるのは、良きにつけ悪しきにつけ、バランス感覚である。強い理想主義に裏打ちされつつも、彼が政治的に選択するのは、あくまで現実の政治状況や政治勢力のあり方を洞察した上での、中道的な立場であることが多い。健康保険制度の法案成立に向けての最終的過程でオバマのとった態度や、核軍縮やアフガン戦争に対する彼の苦心にみちた舵取りに、そのような彼の政治的資質がよく現れていると言えるだろう。
このようなオバマの政治思想がもっとも近いのは、ラインホルド・ニーバーではなかろうか。「変えることのできるものを変える勇気と、変えることのできないものを受けいれる冷静さを」という「祈り」で知られるニーバーは、宗教家であると同時に、国際政治を中心に冷徹な現実主義から論じた思想家であった。個人がいかに道徳的であろうと努力しうるとしても、社会は利害や野心の対立を超越することはけっしてできない。個人の道徳的向上を願うモラリズムと、政治的なリアリズムを徹底して峻別したニーバーこそ、オバマの拠って立つ中道主義を支えているように思われてならない
とはいえ、このようなオバマの中道主義こそが、現在のアメリカでもっとも隘路に立たされていることも間違いない。政治的分極化の進むアメリカにおいて、対立を乗り越える指導者となることを期待されて登場したオバマであるが、すでに指摘したように、彼を支える政治的基盤は喪失し、その中道主義を推し進めるための政治的なモメンタムは見当たらなくなっている。オバマの「バランス感覚」は、いまや彼を、誰も積極的に支持することのない、きわめて危うい政治的真空状態の上に押し上げてしまったかに見える。
ホワイトハウスでのオバマの様子を見て、「ロースクールの教授のようだ」という声も聞こえてくる。これは訴訟のいずれの当事者の立場にもコミットすることもなく、両者の主張の得失を冷静に見定めようとする彼の姿勢を暗示するものであろう。もちろん、政治的指導者としては、このように言われるのはけっして名誉なことではない。少なくとも長く続いた「保守の時代」を反転するリベラルな政治家の資質としては、迫力に欠けると批判されてもやむを得ないであろう。
明らかにオバマは、アメリカの多様な政治的伝統のもっとも良質な部分を継承する指導者である。とはいえ、その優れた知性とバランス感覚が発揮される政治的環境は、ほとんど失われつつある。連邦最高裁入りをはたしつつもリベラル色を極度に押さえることを強いられているケーガンと、大統領の地位にありながらひたすらバランスに腐心したあげくに孤立無援に陥っているオバマは、現代アメリカにおけるリベラル派の苦境を象徴しているように思われてならない。
アメリカ政治の未来
最後に、今後のアメリカ政治について展望しておきたい。すでに指摘したように、ティーパーティー運動には、明確な政治的指導者も一貫した政治思想も欠けている。だからこそ、一般のアメリカ人の日々の不満や孤立感をよりよく受け止め、その怒りや破壊衝動をたくみに政治的動員に結びつけている。世論調査によれば、有権者の四割がこれを支持しているという。2012年の大統領選においても、この運動が台風の目となる確率は高い。とはいえ、かつての「保守の時代」を準備したような組織的・思想的努力に欠けるこの運動が、長期にわたって持続的な影響力をもちうるとは考えにくい。むしろ保守主義の内部矛盾を拡大することにつながるのではないか、というのが現時点での予想である。
しかしながら、リベラルの側にも、苦境を切り開く要因が乏しい。唯一考えられるのは、追いつめられたオバマが、経済的な回復を待ちつつも、同時に苦境に置かれた現代アメリカ国民の耳に届く道徳的な「声」を取り戻すことであろう。クロッペンバーグによれば、若き日のオバマは、文学や思想に沈潜しつつ、やがて政治のもつ変革力や、黒人としての自らの「声」を表現することの意義に目覚めたという。
大統領就任後のオバマが、国民に向けてじっくり語りかけることが少なくなったという批判は少なくない。少なくとも、国民の側において、そのような印象が強いことは事実であろう。ある意味で、オバマはそのもっとも有力な武器であった言葉の力を失い、その「声」が一人ひとりの有権者に届かなくなっているのである。しかしながら、オバマをその地位へと押し上げたのは、彼の卓越したコミュニケーション能力であった。この原点に戻ることによってのみ、彼にようやく未来への明かりが見えてくるのではないか。
ここまで述べてきたことからも明らかなように、保守とリベラルに分断されたアメリカの政治状況は、政治的座標軸そのものが融解状態に陥った日本の政治状況とは異なった苦境の様相を呈している。しかしながら、多様な政治的不満が、相互の対話を欠いたままに巨大な力となって政治の中枢を直撃し、その中枢においては孤立に陥った政治的指導者の沈黙が続いている状況は、まったくの他人事とは言いがたい。より根本にある、政治の分断と分解という危機は日米に等しくあてはまるのではなかろうか。
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