東京都知事選挙など統一地方選挙がたけなわである。知事選挙や道府県議会選挙の結果は、今後の日本政治に大きな影響を与えるに違いない。
まず、気になるのは「改革派」知事の退潮という傾向である。片山善博鳥取県知事、増田寛也岩手県知事が勇退し、かつて地方分権のオピニオンリーダーとして活躍していた知事はいなくなった。まず、地方政治における改革の意義と限界について振り返っておきたい。これらの知事の最大の功績は、地方における政治の発見であったと私は考える。以前は、地方自治体の首長には堅実な行政手腕や中央とのパイプが求められた。しかし、改革派知事は、国の法律はこうなっているとか中央省庁はこう言っているという言い訳を否定し、自ら法解釈を打ち出し、中央省庁に時代遅れの制度を改めるよう働きかけた。鳥取県西部地震の際に住宅再建補助を行った片山知事の行動がその典型であった。
また、役所組織にたまっていた悪しき慣習を改め、役所に市民社会の常識を吹き込んだ。徹底した情報公開によって、政策形成に市民参加を進めた。地方政治のレベルで、民主主義の新しい可能性が見えてきたと言っても、過大評価ではないであろう。
では、どこに限界があったのであろうか。改革派知事の改革は、参加や公開などいわば政策形成の手続きレベルの制度改革に力点が置かれていた。他方、地域経済や福祉など実体的な政策のレベルでは、新しいパラダイムを打ち立てるまでにはいたらなかった。90年代には景気対策という名目で国は地方に借金による単独事業を奨励した。21世紀に入ってからは、まさに手のひらを返したように国は公共事業費と地方交付税を削減し、自治体に緊縮財政を強いた。改革派首長は脱公共事業の地域政策を目指したが、地域格差拡大の趨勢の中で、地域の疲弊を止めることはできていない。もちろん、この課題は国全体で取り組むべきものであり、地方のリーダーだけを責めるのは公平ではない。しかし、地方では入札改革による落札率の低下に象徴されるような「きれいごと」だけでは飯は食えないという本音の不満がたまっていることも確かであろう。
小泉時代の三位一体改革は羊頭狗肉に終わり、地方の自由や財源をもたらすものではなかった。この4月に発足する地方分権推進委員会の使命は大きい。しかし、安倍政権が地方分権にどこまで本気か分らない。地方の側からどのような改革が必要か大きな声を上げる必要がある。地方選挙をそのような議論の機会として欲しい。
次に、選挙における無党派層の存在について考えてみたい。宮崎県知事選挙でそのまんま東氏が当選したことで、無党派層が依然として選挙の行方を左右する大きな存在であることが明らかとなった。世論調査によれば、東京都知事選挙に関しては、無党派層の中に石原慎太郎知事への支持が広がりつつある。この傾向は、無党派層の動きに破壊的な要素と建設的な要素が並存していることを示す。二期目の石原都政には、縁故主義による権力の私物化、新銀行東京の失敗など大きな失点があった。また、テロの正当化、女性蔑視、外国を侮辱する発言が相次いで、首都のリーダーとしての適格性を疑わせる出来事には事欠かない。三流の画家である息子に公費で仕事を与えることに対して、健全な納税者感覚があれば、囂々たる非難が沸き起こるはずである。しかし、石原氏は依然として人気を保っている。この現実は、無党派層は、必ずしも為政者の業績や品性を冷静に評価するわけではないことの反映である。
人間には、多かれ少なかれ他人を馬鹿にしたり差別したりすることによって優越感を得ようとする邪悪な側面がある。以前に、ある足立区議からこんな話を聞いた。足立区は二三区の中でも特に貧困問題が深刻であり、その区議も生活保護受給者のために奔走しているとのこと。しかし、生活保護受給者よりも少し豊かな普通の住民からなぜ貧乏人のために必死で働くのだと文句を言われることが多いのだそうだ。これに関連して、心理学者の速水敏彦氏は、仮想的有能感という概念によって、現代の若者の心理を説明している。競争原理が浸透した現代社会では、人は体面を保ち、自己を主張して生きていくことが求められている。しかし、それは大半の人にとってきわめて困難な課題である。特に負け組になりそうな人ほど、そうしたギャップを埋め、自己を肯定するために、わけもなく他者を軽視し、そのことによって自尊感情を味わおうとする傾向があると速水氏は言う。この根拠のない自尊感情が仮想的有能感である(『他人を見下す若者たち』講談社現代新書)。
石原慎太郎という人は、日々のきびしい生活の中で不安を感じている人々に仮想的有能感を味わわせる特殊な能力を持っているということができよう。数々の差別発言にもかかわらずではなく、それゆえに石原氏は現状に不安と不満を持つ無党派層の支持を引き出している。まさに、生活保護受給者のために働く区議会議員に文句をつける人間の感性こそ石原人気の源泉である。
こうした政治の傾向は日本だけのものではない。イタリアのベルルスコーニ前首相など、ヨーロッパにおける右翼的ポピュリストも同じような手法で大衆の支持を集めてきた。しかし、そうした政治からは何も生まれない。仮想的有能感はあくまで仮想であり、一時的な癒しをもたらすだけである。人々が直面している生活上の困難は、何一つ解決されない。
この選挙は、政治の原点について考え直す機会である。政治とは人々が共通して抱える問題を解決するための共同の営みである。市民にとってより身近な地方政治において、我々がそうした共同作業を行う能力を持っているのかどうかが問われている。
|