注目されていた統一地方選挙前半戦は、結局現職首長の圧倒的強さが確認される結果に終わった。今回の選挙には、無党派層と呼ばれる人々の政治的な思考様式が現れたように思える。
東京都知事選挙で三選を果たした石原慎太郎氏と、広島市長選挙で同じく三選を果たした秋葉忠利氏とは、政治信条や政治手法においておよそ対極に位置する。石原氏は好戦的な発言を繰り返し、女性や外国人に対する蔑視発言に現れているように、人権感覚など持ち合わせていない。秋葉氏は、平和と人権を政治の基本に据えており、核兵器廃絶運動のシンボルである。両者が、それなりに有力な新人の挑戦を易々と退け、無党派層の支持を獲得して楽勝したことは何を意味するのであろうか。
まず明らかなことは、無党派層は平和主義あるいはナショナリズムといった特定の主義について、中身を理解して共鳴しているわけではないということである。情報化が進んだ今日、東京の無党派層はタカ派で、広島の無党派はハト派だなどということはあり得ない。リーダーが発する言葉の意味よりも、リーダーが持つ存在感、あるいは彼らがかもし出す磁場のようなものに無党派層は引かれるのであろう。そして、石原にも秋葉にもなびきうるということは、無党派層は磁力の絶対値を問題にしているのであって、その方向には無頓着だということを意味している。
こうした傾向は小泉時代に顕著になっていたが、小泉という特異なリーダーが退場しても依然として続いている。要するに、日本人と政治の関わり方が変わったということであろう。伝統的な民主主義の理論においては、国民は政治家・政党が示した政策を比較吟味し、自らにとって最も好ましい、あるいは有利になる政策を示す候補者を選ぶという論理が前提とされていた。しかし、小泉時代にはこの前提が崩れてしまった。労働分野における規制緩和や社会保障分野における小さな政府路線は、勝ち組にあらざる大多数の普通人にとって不利な政策であった。まさに人々は自分たちに不幸を押し付ける政治家に歓呼の声を上げたのである。今回の東京都知事選挙では、「ババア発言」に見られるように女性蔑視を公然と語る石原知事を、他ならぬ中高年の女性も支持した。政治家に対する評価基準が崩れているとしか言いようがない。
現実の世の中では、小泉時代に弱者も支持した冷酷な構造改革の効果により、貧困、地域格差の拡大、医療の崩壊など、矛盾が累増している。この地方選挙や七月の参議院選挙では、そのような矛盾を是正するための方策について論議し、選択することが求められるというお決まりの論評を私もしてきた。しかし、事態はそうした民主主義の常套句を受け付けないほどに深刻化している。まっとうに人権や平等を訴えても、強力な磁場から発されたメッセージでなければ、普通の市民に届かない。民主主義や人倫に反するメッセージでも、強力な磁場から出てきたものは届いてしまう。
石原知事の圧勝を見て、東京の無党派などいい加減なものだと叫びたい衝動に駆られる。とはいえ、秋葉市長を選んだから広島の無党派は偉いと持ち上げるのも(個人的にはそうしたいのは山々であるが)、やはり的外れである。無党派層に対して言葉がしだいに通じにくくなっても、やはり政治を変えるためには言葉によって問題を説明し、言葉によって対策を議論する以外に、方法はない。たとえば、民主党の言う「生活維新」などという訳の分らないスローガンではなく、医療や介護のサービスをいかに確保するか、そのためにどれだけのコストを負担するかという具体的な議論から始めなければならない。
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