このところ政局の動きが急である。5月中ごろには、安倍政権支持率が上昇に転じ、野党には手詰まり感さえ漂っていた。しかし、ずさんな年金管理に対する世論の沸騰と、松岡利勝農水相の自殺という2つの大きな衝撃によって政権の先行きには暗雲が垂れ込めてきた。選挙自体は面白くなったのだが、日本政治の諸課題とリーダーシップのあり方について考えるとき、最近の政治的事件を面白がってばかりはいられない。
一連の出来事からうかがえる最大の問題は、日本政治におけるリーダーシップの危機である。もちろん、安倍晋三首相の個人的な要因もある。しかし、自民党という政党の組織的な要因もある。リーダーシップの空白は、目先の参議院選挙の勝敗を越えて、日本政治の将来を脅かすことになりかねない。
安倍首相は、重要な政策案件について自分の責任で決めるというせりふが気に入っているようである。しかし、彼はリーダーシップについて致命的な勘違いをしている。第一は、無理を通して道理を引っ込ませることを強いリーダーシップだと錯覚している。第二は、自分にとって大事だと思えることにすべて手を出して、すべて実現することを強いリーダーシップだと錯覚している。最近の政局の混乱はこの二つの錯覚に由来しているように思える。
第一の錯覚は、結果的に松岡氏を自殺に追い込んだ。もっと早く大臣を更迭していれば不名誉ではあっても死ぬことはなかったと感じたのは、私一人ではないはずだ。事務所費の問題について「何とか還元水」という明らかな嘘をついた時点で、それ以上大臣の地位に据え続けることには道理がなくなった。多少の嘘や開き直りは政治の常である。しかし、地位の高い政治家ほど、矮小な嘘で保身を図ることについて、国民の目も厳しくなる。まして、内閣を挙げて教育再生を掲げ、道徳の回復を叫んでいる時はなおさらである。むしろ、常識に照らして真相を説明させることこそ、本来のリーダーシップである。
第二の錯覚は、この内閣の多動症につながっている。年金保険料の管理がきわめて杜撰であったことが明るみに出ると、政府与党は加入者の権利を救済するための特別法を提案し、衆議院はたった一日の審議で通過させた。もちろん、記録が明確でない年金受給者の利益を保護することは重要な課題である。しかし、そのような善後策は一日を争うという話ではない。法案をたった一日の審議で成立させることは、合法的ではあっても常識的ではない。また、調査や救済策の詳細はまったくつめられていない。この政権は、時間をかけて考えることをすぐに怠惰、無策と受け取られるという恐怖心を持っているのだろう。年金問題に限らず、教育、憲法改正など多くの問題について性急に結論を出し、目に見える成果を挙げようとするところに、この政権の特徴がある。あれもこれもと手を出せば出すほど、何一つものにならないという教訓は、個人にも政権にも当てはまる。
政治学の最近の議論では、小泉時代に起こった大きな変化として首相支配や政府・与党における集権性、求心力の高まりを指摘するものが多い。安倍政権になっても、首相直属の政策審議機関が設置され、首相の補佐官が活躍するなど、そうした傾向が続いているように見える。しかし、政府・与党において、「寄らば大樹の影」風の同調主義が強まることと、リーダーシップが強化されることは同じではない。経済、財政事情の変化により個々の政治家に利益誘導を行う余地が狭まった。政治家の糧道はかなり狭くなっている。また、小選挙区制度のもとでは、党の公認が決定的な意味を持ち、個々の政治家は今まで以上に党執行部の顔色をうかがうようになった。かくして、自民党の中には事大主義がはびこることとなる。事大主義に乗ったリーダーには本当のリーダーシップは振るえない。自民党における見せ掛けの求心力は、リーダーの強化ではなく、党や内閣の弱体化の結果である。その意味で、自民党におけるリーダーシップの空洞化は深刻である。
安倍政権の失速によって首相がこだわる憲法論議はかすんできた。落ち着いた状況で憲法論議ができることは歓迎したい。しかし、論議をよそに事実上憲法を無視、改変するような動きを政府は進めている。特に憂慮すべきは自衛隊の独走である。5月には沖縄県名護市の辺野古沖で米軍基地建設のための環境影響評価の際に海上自衛隊の護衛艦が出動するという事件が起こった。これは、事実上の治安出動である。60年安保の際に岸信介がデモの鎮圧のために治安出動を図ったが、赤城宗徳防衛庁長官(当時)に反対され断念したことがあった。安倍首相はこれで一つ祖父の無念を晴らしたつもりであろうか。また、自衛隊の情報保全隊がイラク派遣に反対する市民運動等について情報収集を行っていたことが共産党の調査によって明らかになった。いずれの事件も、自衛隊は何を守るのかという根源的な疑問を抱かせるものである。
シビリアン・コントロールとは、背広を着た政治家や官僚が軍隊を動かすという形式的な意味だけを持つのではない。市民社会が軍事組織を統制するという理念が閑却されては、シビリアン・コントロールは崩壊する。市民社会には多様な意見があるのは当然であり、軍事組織は特定の意見を敵視することなどあってはならない。まして、自衛隊は特定の政権を守るための存在ではない。
安倍首相は岸信介を手本に集団的自衛権の解禁や憲法改正を目指している。しかし、目先の問題で周章狼狽している安倍首相は、シビリアン・コントロールの担い手たりうるのだろうか。憲法論議や自衛隊は、劣等感にさいなまれる政治家の玩具ではない。個々の政策問題も重要ではあるが、安倍首相のリーダーとしての適格性が、参議院選挙の究極の争点となるべきである。
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