今月の参議院選挙は、まさに戦後政治の分水嶺となる重大な選挙となるに違いない。松岡利勝農水相の自殺や年金管理のずさんさに対する世論の沸騰などでいささか霞んだとはいえ、安倍晋三首相は「戦後レジームからの脱却」を政権の看板政策に据え、自民党は参院選向けの「一五五の重点政策」の冒頭で新憲法制定の推進を謳っている。選挙戦の論争の重点は年金や社会保障に傾くのであろうが、このような争点を掲げて戦った以上、選挙に勝てば改憲が支持されたと主張して、具体的な動きを早めるに違いない。
安倍政権が戦後レジームを選挙の争点に据えることにはそれなりの理由もある。実は、小泉政権の五年間、外交・安全保障についても、国内の社会経済政策についても、戦後政治が築き、定着させてきた大きな枠組みが侵食されており、その意味で戦後レジームからの脱却は事実として着々と進行している。したがって、国政選挙の機会に戦後レジームとは何であり、これをどのような意味で持続し、どのような点で修正するか、自覚的な議論を行うことが必要である。以下、この文章では戦後レジームを総括し、これがなぜ今様々な批判や挑戦にさらされているのか、そして、安倍自民党とは異なる方向性においてこれをいかに発展させるべきかについて考察してみたい。
1 戦後レジームの歴史的淵源
まず、戦後レジームの形成過程とその中身について、歴史的に振り返っておきたい。戦後六〇年あまりを振り返るとき、旧体制が瓦解して新たな体制を構築する過渡期、即ち理念の空間としての「第一の戦後」と、統治の枠組みができあがり、その中で具体的に動いていった政策の空間としての「第二の戦後」を区別する必要がある。時期的に見れば、第一の戦後は敗戦から一九六〇年の六〇年安保まで、第二の戦後はそれ以後一九九〇年代までということになる。第一の戦後において、新憲法に象徴される戦後の精神――端的に言えば個人は国家の従僕ではないという考え――は、それを否定し戦前への回帰を求めるベクトルと正面からぶつかった。そして、戦後の精神は次第に国民の間に支持を広げ、保守政権もこれを圧伏できないまでに根を下ろした。六〇年安保の際、大規模な国民の抗議行動の前に岸信介が退陣したことは、そのことを決定づけた。
第二の戦後とは、自民党政権が戦後の精神をそれなりに受容し、これと安全保障や経済の現実と折り合いをつけながら形成した、現実的な統治の枠組みであった。自民党は戦後に順応したからこそ長期安定政権を維持することができた。たとえば、個人のために国家があるという関係性は、第1の戦後の理念空間から、泥臭い現実政治の地平に降り立ち、個人や組織の欲望充足のために政治が奉仕するという政治家の行動原理として具体化した。田中角栄が体現した利益配分政治は、自民党なりの戦後民主主義の実践であった。
戦後レジームには、外交・安全保障における「九条+安保」体制、国内政策における経済発展と日本的再分配という二つの柱が存在した。改憲を断念した自民党政権は、いわゆる解釈改憲によって自衛隊を正当化した。九条の下でも国として当然自衛権を持っているので、必要最小限の自衛力ならば合憲であるという理屈で、九条と自衛隊の両立が説明された。また、専守防衛の自衛隊の手に余るような紛争については、アメリカの力を借りるという理屈で、九条と安保条約の両立も説明された。
国内政策については、経済成長の追求が基調であり、成長の果実がいくつかの「日本的システム」によって再分配された。いくつかのシステムの特徴と限界についてはこの後で詳しく分析するが、まずここでは、保守政党であった自民党が平等という価値に熱心であったことを確認しておきたい。多くの政治家にとって、貧困からの脱却は自明の政策目標であった。また、地方出身の政治家にとって、地域間の平等の実現は、イデオロギー以前の政治の使命であった。
2 戦後レジームの達成と限界
戦後レジームが国民にもたらした成果について、国民は概ね肯定的にとらえているということができる。何よりも、二〇世紀後半の日本は経済発展を遂げ、多くの国民は豊かな生活を送れるようになった。二〇世紀が終わるころまでは、普通の日本人は生活の安定と将来の見通しをある程度持つことができた。また、日本は戦争に参加することも巻き込まれることもなく、他国民を殺傷したことはなかった。戦後の日本を、このような単なる「成功物語」と規定するならば、この期間の日本を統治してきた自民党政治、特に保守本流への讃歌になってしまい、この間の政治を批判してきた進歩派の言説は何だったのかということになる。まず、批判的言説が保守政権に緊張感を与えたことによって、戦後レジームが弊害を未然に修正することを可能にしたという関係を指摘できる。環境問題や福祉政策など、経済発展路線からこぼれ落ちていた課題に政治の光を当てたことなどがその代表例であった。また、戦後レジームの肯定すべき面と否定すべき面をあえて量的に表現すれば、肯定面が二に対して否定面が一ということになろう。戦後レジームにも欠落はあり、それを是正するためには批判的言説が必要であった。
戦後レジームにおける欠落とは以下のようにまとめられる。
安保・外交においては、平和の裏側に対米追随と思考停止という問題があった。平和国家日本という路線に対しては、特に冷戦終結以後、一国平和主義という批判が浴びせられるようになった。しかし、軍事面での役割を拡大することを主張する側も、アメリカの手駒になること以上の構想や戦略を持っているようには見えない。
国内の社会経済システムにおいては、パターナリズムとコンフォーミズムという弊害が存在した。パターナリズムとは、人間関係において対等な関係を認めず、上下服従の関係を設定したがる社会原理を意味する。長期安定雇用の裏側には、日本的経営における労働者の管理が存在した。選挙にせよ余暇活動にせよ、会社が従業員を動員するときに、これを拒絶することはきわめて困難であった。地域間格差是正の地方政策の裏側には、霞ヶ関による中央集権が存在した。地方自治体が思考や決定の自由を放棄し、中央からの指導、通達に従順である限り、補助金、地方交付税などの財源が保障された。かつては様々な業界ごとに、護送船団方式と呼ばれる保護と規制の仕組みが存在した。官尊民卑の秩序の中で、天下りを受け入れたり、官僚OB候補の選挙を支援したりする限り、業界の安定は保障された。家族においては男性が支配し、女性が従属するという関係が自明であった。
コンフォーミズムとは、同質的であることをメンバーに強要し、それを拒絶するものを迫害、冷遇するという社会原理である。たとえば、戦後日本の社会保障や税制は、父親が働き母親は専業主婦という四人家族をモデルとして構築されてきた。標準的家族像から外れる生き方をする人々、特に働く女性は、このような政策の下ではさまざまな不利益を被ってきた。
パターナリズムとコンフォーミズムを基調とする戦後日本は、囲い込み社会と呼ぶことができる。そこでは、個人も企業も地方自治体も、出来合いの枠組みの中で想定された生き方をせよという強い圧力が働いていた。戦後日本における平等や安定は、そうした圧力へ服従、同調する限りにおいて保障されていた。その意味では、同調を拒む異質な、あるいは個性的な人や団体にとって、戦後日本は住みにくい社会でもあった。
同調主義や権威主義がはびこる社会は、政治的な意味で多元性の低い社会である。戦後日本政治において自民党による一党支配が続き、政権を担う野党が育たなかったことの原因としても、こうした政治文化は作用している。また、パターナリズムの政治文化においては、腐敗が横行した。明確なルールが存在せず、利益配分や利害調整が官僚の裁量に任されていたからこそ、政治や行政の腐敗は慢性化した。戦後レジームの中で、否定すべき部分とは、このような弊害であった。
3 戦後レジームの綻びと改革
残念ながら、戦後レジームは、内側から弊害を克服し、時代の変化に適応するという展開をたどることはなかった。むしろ、大きな時代の変化によって徐々に掘り崩されてきた。
戦後レジームをゆるがせた最大の要因は、冷戦の終わりとアメリカによる一極支配の出現であった。アメリカの信奉する自由と市場経済が絶対的価値になり、九一一によってそうした傾向がさらに加速されると、日本もアメリカの側につくのか反対するのかという単純な二者択一を今までよりも露骨に押し付けられるようになる。
また、市場競争主義が経済のみならず社会のあらゆる分野に浸透するようになると、当然のことながら勝者と敗者の格差が拡大した。雇用における規制緩和と非正規雇用の増加、地方交付税や公共事業の削減による地方の疲弊など、二一世紀に入ってからの格差、不平等の拡大は、規制緩和や財政緊縮という政策の帰結であった。一九八〇年代中ごろに出現した「総中流社会」の崩壊は、もはや誰の目にも明らかであった。
このような趨勢の中では、安定した雇用、弱い地域や業界への支援など戦後レジームの達成物が、既得権に化してしまった。潮位の上昇によって従来陸地の高台だった地点が水中に点在する孤島のように見えるように、従来は日本社会の常識だったはずの制度や慣行が、経済環境の変化という高潮の中で、時代遅れの特権のように映るようになった。
こうした時代状況に、小泉政権が登場してきた。他ならぬ、規制緩和や財政緊縮によって損をするはずの人々が小泉改革を支持した。それは合理的な反応ではない。しかし、変人小泉が進めた改革が、パターナリズムやコンフォーミズムを打破するという爽快感をもたらしたことは確かであろう。日本の経済社会に孤島のように残った避難所−−公務員、建設業、農業、過疎地振興策−−を破壊することで、弱者の生活は水没した。しかし、腐敗を打破し、時代遅れの特権を剥奪したことで、一応日本社会は公正なものに近づいたように見えた。もちろん、それは捨て鉢の、破壊的な平等である。こうした点で小泉改革は広い支持を集めたことも確かである。
また、アメリカ対テロリズムという極端な二者択一を受け入れて、アメリカの側につくことを小泉政権は明確に選んだ。その結果、9条の精神と安保・自衛隊の現実の微妙な共存という路線が崩された。もはや、自衛隊は専守防衛の枠をはみ出し、アメリカ軍と一体化しつつある。日米安保条約は日本を守るための軍事同盟から、アメリカの軍事戦略を日本が支援するための同盟に変質した。即ち、明文の憲法改正にはいたらないまでも、自衛隊の変質は小泉政権の下で着々と進んだ。そこには、一国平和主義とはまったく逆方向での思考停止を見出すことができる。イラク戦争について主体的な総括がまったくできないような政府に、国家戦略など語れるはずはない。
このように、小泉時代には「改革」や「テロとの戦い」という大義名分の下で、戦後レジームは事実上掘り崩されてきたが、そのことを政策テーマとして自覚的にとらえるということはなかった。安倍首相自身が戦後レジームという言葉を頻繁に使うようになって、ようやくこのテーマについて議論することが可能になった。
4 安倍政権の立ち位置――保守政治からの乖離
安倍首相は、遅れてきた岸信介である。彼自身、祖父の果たし得なかった憲法改正を自らの手で成し遂げるという強い意欲を表明している。安倍の最大の錯誤は、第1の戦後という幻影を相手にシャドーボクシングをしている点である。冷戦の発想を引きずる安倍にとっては、北朝鮮のイメージが第1の戦後における革新勢力と重なって見えるのであろう。それにしても、安倍が怨念を燃やす革新勢力は、今や日本政治においてほとんど影響力を持っていない。また、北朝鮮と革新勢力を一緒くたにして、ただ憎悪をたぎらせるだけという単純な発想は、安倍政権の現実の外交政策の手を縛るという結果につながっており、賢明ではない。
何よりも、安倍は戦後という時代の意味を理解していない。今生きている日本人にとっての戦後レジームとは、一九六〇年代以降の統治の枠組みに他ならない。それはまさに自民党政権が築いたものであり、戦後レジームには戦後保守政治の神髄が現れている。
革新勢力がイデオロギー的であったのに対して、保守政治は、具体的な問題解決に向き合ってきた伝統を持っていた。戦後レジームの創設者であった池田勇人首相を支えたのは、前尾繁三郎、大平正芳などの保守政治家であった。前尾は、保守主義の特性を、過去との連続性を保ち、できるだけ徐々に、できるだけ不安と混乱を少なくして変化すると規定した。また、大平は、「昔はよい時代であったが、今はそうでないと断定するのは誤りである。いつの時も今日と比べてひどくよかったという時代はなかった」、「いかなる手段にも必ずプラスとマイナスが伴う。絶対的にプラスである手段などというのはない。現在よりプラスの多い、よりマイナスの少ない手段を工夫することが大切である」と述べ、保守政治が持つべき現実感覚の重要性を説いた(二人の発言は、富森叡児『戦後保守党史』、岩波現代文庫による)。
前尾や大平は当時上り坂だった社会主義勢力への対抗のために、保守政治の理念を彫琢した。しかし、今読むと安倍政治への警告として正鵠を射ている。そして、その点は、安倍が手本とする岸政治が実は日本の保守政治の中で異質な存在だったことと関連する。岸は、戦前、戦中の統制動員体制のデザイナーであった。岸にとって国家改造の目的は、日本がアジアにおける盟主になることであった。敗戦で挫折した後も、岸の発想は持続し、政権獲得後は積年の野望を実現しようとした。しかし、岸は保守主義を踏み外して性急に変革を起こそうとしたがゆえに、国民に拒絶された。すでに定着していた平和と民主主義を覆されることへの不安こそ、岸に反発した世論の根底に存在した。岸政治が国民によって拒絶されたからこそ、その後の日本の繁栄と自民党の長期政権が可能になったことを、安倍は直視すべきである。安倍が祖父への身びいきのあまり、戦後レジームを否定することは、自民党政治を否定することであり、天に向かって唾するようなものである。
時代は異なるが、安倍と岸には、ある種の急進主義が共通しているように思える。安倍には、戦後レジームへの不満が鬱積するあまり、一気に現状を変革しようという冒険主義を感じる。かつて言及した核武装や敵基地先制攻撃の検討、集団的自衛権の行使などはいずれも戦後レジームの根幹を自ら破壊したいという欲求の現れであろう。それは、戦後においてなお日本帝国の栄光を追い求めた岸の野望と重なる。昔は左翼小児病という左派の心情主義、冒険主義を揶揄する言葉があったが、左派が凋落した今、冒険主義は右派の売り物になった感がある。そういえば、鈴木邦男氏が最近の右派論壇について、大学紛争時代の過激派の立て看板を一八〇度右に回すと今の右派の主張になると述べていた。
具体的な政策課題に向き合い、まじめに政策を作るためには、知的な忍耐力や持続力が必要である。逆にそうした能力を欠いた政治家は、常に観念論や精神論を振りかざし、過激な言説を競うものである。まさに、安倍政治が取り組んでいる教育改革や年金政策がそれである。医療の世界では最近、根拠に基づいた(evidence-based)治療という概念が重視されている。事実に基づいて病気の原因を解明し、それに対応した治療を行うのは当然である。しかし、社会の病理を治療する政策の世界においては、エビデンスが無視されていることを政治家やメディアは怪しまない。
安倍政権の政策は、事実を無視した決めつけと、それに基づいて人目を引く対策をてんこ盛りにすることから成り立っている。学力が低下したと言われれば授業時間数を増やし、いじめがあると聞けば「いじめっ子」を強制的に排除する権限を教育委員会に与え、教師の力量が低下しているという不満を聞けば「ダメ教師」を排除すると叫んで教員免許の更新制を導入する。どれをとっても政策というより、刺激的情報に対する条件反射である。一つ一つの政策が組み合わされ実施されたときに何が起こるのか、誰も考えていない。授業負担の増加、免許更新への準備、教育委員会の介入によって現場の教師はますます子供と向き合う時間を奪われ、疲弊していくに違いない。
厳しい現実を突きつけられて逃れられなくなると、政府指導者は周章狼狽し、「矢継ぎ早」に対策を打ち出すことで国民の支持をつなぎ止めようとする。年金保険料納付記録の不備にしても、安倍政権は野党議員の追及に対して当初は国民の不安を煽るとして情報の全面的な開示に及び腰であった。しかし、世論が沸騰するととたんに問題を重視するという姿勢をとり、支給もれの年金にかかわる時効を停止するための特別法を衆議院ではわずか一日で通過させた。政権の当事者たちは、これを電光石火の早業と誇りたいのであろうが。
一連の政策形成過程からは、安倍政治の病理が浮かび上がってくる。それは、劣等感や自信欠如に由来する多動症である。繰り返しになるが、安倍は岸信介を尊敬し、彼に匹敵する大宰相になりたいという願望を持っている。しかし、政治家としての実力のなさも自覚している。だからこそ、いつも動き回っている様を国民に見せることによって、評価してもらおうとする。腰を据えて物を考えることを怠慢や無為と受け止められるという事態を極度に恐れているために、多動症が亢進するのである。
しかし、現在の安倍政権は、動けば動くほど思慮の浅さや対策の的外れを国民に見透かされるという悪循環に陥っている。新聞各社の世論調査において、内閣支持率が30%前後に低迷していることはその現れであろう。
多動症の裏側には、同時に他人の意見を聞き入れない依怙地さも張り付いている。自信欠如のゆえにちょっとした修正も変節と受け止められることを恐れ、一つの方針にしがみつく。その結果、無理を通して道理を引っ込ませることを強いリーダーシップだと考えるという錯誤に陥る。松岡利勝農水大臣を自殺に追いやったのは、この錯誤であった。
このように安倍政権における政策形成や政権運営を観察すると、リーダーシップの危機が進行していることが明らかとなる。安倍首相は、いわば小心な過激派であり、戦後レジームを作り出した自民党の先達が備えていた保守政治家としての美徳から程遠いのである。
5 参議院選挙と戦後レジームの展開の道
リーダーシップの危機は、そのまま参院選における自民党の危機につながる。安倍政治に批判的な者にとっては、とりあえず歓迎すべき展開ではある。しかし、政権の迷走をよそに、政治権力と市民社会の関係は変化し、立憲主義や民主主義の危機は進行している。海上自衛隊の護衛艦が基地建設に反対する市民運動を威嚇したり、情報保全隊が市民運動に関する情報を収集していることなど、権力と市民社会の関係が大きく変化していることを窺わせる事件が相次いでいる。
戦後六十年余りの間、政治の現状に対して危機という言葉はしばしば使われてきた。いささか後知恵の議論であるが、いままでは保守政治の統治理性を前提として、いわば早目の警報として危機という言葉が使われてきた。あるいは、保守政治の自己修正能力を発揮させるために、危機を論じ警鐘が鳴らされてきた。しかし、いまや保守政治の堤防は決壊し、政治の流れはどこに向かうか分らない、本当の危機がやってきた。戦後政治が大きな岐路に立っている中で、我々は参議院選挙を迎えるのである。
安倍政治の猛々しさと拙劣さを見るにつけ、昔の宏池会や経世会の政治家は立派だったという感懐を覚えることもある。しかし、保守本流に時代遅れの讃歌を送るだけでは、酒場における政治談議と同列である。戦後レジームの基本的な精神を前提としつつも、これがなぜ綻んだかを直視し、次の時代に戦後レジームを継承するために何を変えるか、考えなければならない。
今話題になっている年金問題も、単に加入者の既得権を守るという観点ではなく、戦後レジームの欠点を是正し、より公平なものに作りかえるという視点から、前向きな議論をする必要がある。年金加入者の権利保護はもちろん必要である。しかし、肝心の国民年金制度自体が、少子化と非正規雇用の増加によって空洞化を続けている。今の年金騒ぎは、そのうち崩れるかも知れない建物の中で場所取り競争をしているような滑稽さがある。
問題の根元には、社会保障もパターナリズムを基調とした雇用慣行に依拠していた点にある。従来、被用者の保険料は使用者も半分を負担してきた。しかし、現在企業は非正規雇用へのシフトを強め、社会保険料負担から免れようとしている。非正規労働者は国民年金に追いやられたものの、低賃金ゆえに十分な負担能力もなく、国民年金の空洞化は進む。ほんの一年前に保険料納付率をめぐる数字の操作が問題になったが、制度の根幹は何も変わっていない。年金加入者の既得権意識をくすぐるのではなく、今回高まった関心を持続可能な年金制度の再構築という本当の課題に向けることこそ、社会保障における戦後レジームを再生するための入り口となる。紙数の関係でこれ以上詳しく論じることはできないが、社会保障の戦後レジームを考える時、正規雇用や四人家族片稼ぎといった「標準型」を脱して、個人の自由で多様な生き方と両立するような制度を構想することが急務である。そして、社会保障を旧世代だけが得をする既得権ではなく、すべての人々のリスクを公平に管理する社会的基盤に作りかえることが必要である。
憲法、安全保障問題については、とりあえず解釈改憲の路線まで議論を引き戻すことが当面の最大課題となる。解釈改憲とは憲法を恣意的に解釈し、やりたい放題をすることを意味するのではない。戦後の保守政治が採用した解釈改憲路線は、それなりに厳密な論理の体系に基づいていた。自衛のための実力組織を持てるという点は解釈による改憲であろうが、海外での武力行使の禁止、集団的自衛権の不行使など厳格な歯止めも存在する。今安倍政権が行おうとしているのは、解釈改憲の枠組みをも破壊することであり、政府の意図で憲法を自由に無視するという解釈壊憲である。九条をどの程度忠実に読むかは人によって異なろうが、九条の精神を守りたいと思う人々は、まずこの解釈壊憲を止めることで一致協力しなければならない。
ただ、この点についても単に保守本流に戻れと言うだけでは答えにならない。今までよりもはるかに御しにくくなったアメリカの圧力をかわし、日本の立場を主張するためには、日米関係を相対化するための仕掛けを自らしなければならない。その中で、特にアジアにおける平和の創出のために動き始めることが必要である。この点についても、すでに様々な提言があり、後は野党の側が対抗構想として練り上げることがまたれている状況である。
今回の参議院選挙は、まさに戦後日本の分水嶺である。これでもし与党側が過半数を確保して勝利という総括をするならば、憲法改正、戦後レジームからの脱却が支持されたとして具体的な動きが始まることになるであろう。また、その場合、民主党は敗北の責任をめぐってまたしても党内抗争が起こり、政権への挑戦者という位置から大幅に後退するに違いない。下手をすると、民主党の中の改憲志向派が、改憲のための翼賛体制作りに踏み出すということもあり得る。
逆に、与党過半数割れという結果になり、国民新党や新党日本などの中間政党を加えても過半数を維持できないとなれば、安倍政権はレームダックとなり、政局は流動化するに違いない。そして、次の総選挙で政権交代を問うという展開になるであろう。翼賛体制か、政権交代への第一歩か、我々自身の選択が問われているのである。
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