国家に破れた安倍首相
── 安倍首相が所信表明をしながら、代表質問を受ける直前に突然退陣を表明しました。なぜこのような前代未聞の事態が起きたのか。また、今後日本の政治、あるいは統治のシステムそのものがどうなっていくのか。安倍政権を語るには、それに先立つ5年半の小泉政権の評価も必要だと思うのですが、安倍首相はこの1年間で一体何をしようとしてきたのか。どのように評価されますか?
山口 「したいことがなかった」というのがまず初めから安倍さんの躓きの原因だったと思います。彼は岸信介元首相の孫、安倍晋太郎元外相の息子で、特に父が総理の座を目前に死んでしまったという無念があり、安倍さんは早い段階から「総理になるべき人」という決めつけをされていた。
自民党の中でも若くして総理候補になりましたが、閣僚経験は官房長官だけで、具体的な社会経済問題を解決する実体的な政策を、責任をもってなしとげた経験はほとんどない。政治的リーダーとしての実体験がほとんどないまま、総理になってしまったのです。
しかも三世のお坊ちゃん代議士で、選挙区は山口県でも地方はほとんど知りません。小泉時代に日本社会がどのように荒れていったかについてもわからない。でも、とりあえず総理大臣にならなければいけないという課題が先に来てしまったから、後で政策をとってつけるという形になった。それで「美しい国」やナショナリズム、「戦後レジームからの脱却」、あるいは憲法改正という、非常に空虚なシンボルを乱発する結果になったのです。どれについても彼自身の内発的な動機はそれほど感じられません。「美しい」とか、形容詞をやたらと使いたがるのも実体のなさのあらわれでしょう。はっきりしたテーマを持って総理大臣にならなかったというところから、彼の不幸が始まったと感じます。
佐藤 私は、安倍さんは国家に敗れたと思うのです。別の言い方で言うと、国家を実体として担っている官僚に敗れた。安倍さんは憲法を改正して、「日本国家中興の祖」になりたいと思ったけれど、官僚の文法を掴むことができなかった。官僚は「美しい国」「戦後レジームからの脱却」といった観念論を嫌います。しかもノンキャリアの官僚(井上義行氏)をもってきてキャリアの全官僚を統括する政務担当総理秘書官に据えるという、霞が関の掟破りをやった。そのような手法で国家を動かすことができるのだと霞が関官僚の文法を完全に読み違えたと思います。
小泉さんの秘書だった飯島勲さんの『小泉官邸秘録』の中に、官僚をおさえる方法は一つ、人事だ、とあります。それもトップの人事で、事務次官人事を官邸がどうおさえるかにかかっている。私は今回の安倍さんの終わりの始まりは、防衛事務次官をめぐる小池─守屋戦争だと思うのです。閣僚も事務次官も統率できないことがはっきりして、霞が関の全官僚が官邸を軽く見はじめた。
ただし、唯一部分的に成功したのは、中国と韓国との外交で、たまたま安倍総理との関係がよい谷内正太郎さんが外務事務次官だという特殊なファクターがあったためにうまく噛み合いました。それ以外は、すべて官僚を使いこなせず足払いをかけられたということではないでしょうか。
山口 実は私はイギリスで安倍退陣の報を聞いたのですが、ゴードン・ブラウンと安倍晋三はとても似た位置にありながら、非常に対照的だなと思っていた矢先のニュースでした。イギリスの場合、政権を担う人間にはいい意味での権力欲がある。ブレアは野党時代に自分が労働党の救世主になって政権をとるのだと、「第三の道」という言葉を掲げ政策の体系を準備していました。そして政権をとったら、10年かけて教育と医療を中心に、実際に予算の分配を変えた。
そのブレアが退いてブラウンが首相になったわけですが、彼はブレアのようなカリスマ性やテレビ映りの能力はないけれど、彼自身それをよく自覚していて、自分の特徴はパフォーマンスではなくて、着実地道に政策を実現していくことだ、としている。それがいまのところ世論の支持を得ているという状況です。
一方安倍さんは、小泉政治のメディア手法を引き継ごうとして、うまくいかなかった。自分の弱点がわかっていませんし、ブラウンは、10年間財務大臣を務めて予算編成を一手に仕切って、ブレア政権を支えてきた実績があるわけです。政治家のリーダーシップとは、実体的な仕事を積み重ねることで培われるという点で、日英の大きな落差を感じました。
佐藤 安倍さんの周辺でも、マスメディアでは悪いことばかり書かれ、「安倍レンジャー」と揶揄された総理補佐官の山谷えり子さんや世耕弘成さんなど、実は品性もよく、情報をきちんともっている人たちでした。現下日本の保守政治家の陣営で、安倍さんが優秀な人々を集めたことは間違いありません。安倍内閣が自壊した原因は、安倍さん自身や側近の個人的資質に帰すことのできない構造問題だと私は思うのです。
自民党だけでなく民主党の国会議員についても指摘できることですが、世界観型の思想をもっていない。世界観や「大きな物語」が政治にとって必要と感じていないのです。状況対応型で、その時与えられるイシューによって自分の立ち位置を決めてしまう。従って、個別の局面においては非常にフットワークもよく、マネージメントもうまいけれど、合成の誤謬が起こる。なぜかというと、「大きな物語」が欠落しているからです。日本はどういう国家方針をとるのか。新自由主義でいくのか、保守主義か、あるいは社会民主主義の要素を入れるのか、について根本的に考えていない。
小泉政治はリフォーム詐欺
── 小泉政権は徹底した新自由主義でしたね。
佐藤 ただし、イメージ操作がうまかった。新自由主義政策についても、日本経済を牽引する機関車として強い者をより強くしますので、格差の拡大を是認します。一応、セーフティーネットをつくりますが、そこでは救済できないくらいの格差が生じるので、痛みを感じる国民が、特に低所得者層を中心に数多く発生しますが、そういう方たちは「運が悪かった」と思って諦めてください、という説明をした上で、国民の同意を得て新自由主主義への舵切りをすることが、民主主義的手続きとしては必要とされたのです。
しかし、ポピュリズムを権力基盤とする小泉さんに、国民の支持を失う危険がある真実を述べることはできなかった。そこでイメージ操作を行った。
一例として、鈴木宗男バッシングがあげられます。「鈴木宗男というとんでもない政治家がいる。これが国是である領土問題をねじ曲げたり、利権のために熊しかいないようなところに高速道路を引いている。こんなやつは叩き潰してしまえ!」と。それで圧倒的大多数の国民の喝采を受けて、結果として新自由主義的な転換が成功してしまう。
そして、新自由主義的な政策で何かトラブルが出てくると保守主義を使う。私は最近「新保守主義」とは言わないようにしているのですが、それはネオコンと混同すると同時に、小泉さんにせよ安倍さんにせよ、日本の伝統的な保守・右翼が取りあげた表象を使っているだけなので、「新」をつける必然性がないと思うのです。
ナショナリズムを掻き立てるモチーフとして、アメリカを相手に、東京裁判あるいは広島・長崎の原爆を正面から取り上げてもいいわけです。ところが、新自由主義を推進していく上での最強国であるアメリカとは絶対にぶつからないようなイシューとして、靖国参拝を取り上げる。小泉さんには、もともと靖国神社に対してそれほど強い思いなどないし、日本遺族会が橋本派の牙城だから、切り崩さないといけないということで、2001年の自民党総裁選挙で公約にしたまでのことです。
総理靖国参拝というカードを使ってみたら思ったよりも効果がある。同時に「心の問題だ」というパフォーマンスをしたら、アメリカは政教分離が厳しいから、多少、歴史認識でいろいろな不愉快なことがあっても、「これは私の信仰だ」と小泉さんが言っている以上は、干渉してこないのです。これはいいところに目をつけたと、必要最小限の保守主義的なシンボル操作をした。ただ、これは小泉さんの天才的な能力であり、自民党にとっては、山口さんの言葉を借りれば、「覚醒剤」のようなものだと思います。
山口 政治展開の段階区分について、第一の道、第二の道、第三の道という三段階の議論で日本とイギリスを対比するという議論を私自身もしていますが、第一の道というのは戦後の福祉国家で、ヨーロッパでは社会民主主義、日本では田中派、竹下派の利益配分政治を指します。どちらも「平等」を指向してきた。第二の段階がサッチャリズムであり、小泉新自由主義ということになりますが、やはり違いがあります。日本の場合は、第一の段階である程度総中流社会といわれるものをつくっていたのですが、イギリスはやはり階級社会であって、サッチャリズムによった公営住宅の払い下げや、水道、ガスその他の公営企業を民営化して株を一般に売却したことで、新しい中間層をつくり出したという面があるのです。それを保守党が支持基盤に組み込んで総選挙四連勝という大成功をおさめ、労働党は衰えていく労働者階級を基盤とする政党として周辺化されていく、という構図だったわけです。小泉新自由主義はすでにあった中流社会を解体して、むしろ階級格差を広げた。そこが明確に違う点です。
佐藤さんが言われたように、小泉時代の政治は徹底して思考停止あるいは議論なしで、政策の結果やコストについて、国民にインフォームド・コンセントを得るようなことはまったくありませんでした。あくまで族議員と官僚が支配してきた不透明な裁量型の政策に風穴をあけ、透明化する、あるいは効率化するという非常にプラスのイメージを描いて、小さな政府路線を正当化していったわけですから、羊頭狗肉というか、リフォーム詐欺のようなものです。ただ、小泉という人は偉い人で、彼がセールスをやっている間はみんな詐欺の被害に気がつかなかった、あるいは気がつこうとしなかった、そういう特異なリーダーだったのでしょうね。
佐藤 サッチャーさんの場合、戦争の要素もあると思います。私は86年9月から87年8月まで、ロシア語を勉強するためにイギリスの陸軍語学学校に留学していたのですが、82年のフォークランド紛争がそれまで弛緩していたイギリス人の国民意識を組み立てる上で大きな影響があったと非常に強い印象を受けたのです。アメリカの戦争に加わるのではなく、単独でイギリス自身の帝国主義的な野心のために戦争に踏み切った。そのとき「われわれはイギリス人だ」という感覚をもう一回つくり直したのではないかと思うのです。
山口 たしかにフォークランド紛争はサッチャー政権を長期化させる非常に重要な契機で、83年の選挙で大勝し、労働党は壊滅的な打撃を受け、分裂にまで追い込まれるという展開になった。戦争という手法がいかに有効かについて、久しぶりに先進国で彼女が実験したという面はありますね。
佐藤 たとえば王子の一人が空母に乗って出撃し、ケンブリッジ、オックスフォードの連中が手を挙げて前線に赴き死ぬことで、エリートに対する信頼感が上がる。徴兵制ではないから、一般国民は戦争に行きたくなければ行かなくていいのです。「わが国のエリート層には国のために命までかけるような人たちがいるのだから、我々に悪いことはしないのではないか」という印象を国民全体につくり出すことに成功したのだと思います。
── 日本の場合、北朝鮮の拉致問題でつくり出せたかどうか。
山口 安倍政権にとって最大の得意分野は北朝鮮外交でした。拉致事件が発覚して以来、安倍政権はそれを国民の対外的な恐怖心を煽ることに利用したわけですが、安倍さんが権力をとる過程では有効ではあり得ても、あまり長続きしなかったという印象ですね。
新自由主義は国民を統合していくというベクトルを持っていないわけだから、拉致被害者に対してほんとうに手を差し延べ、国民の物語をつくるという認識は、実は十分持っていなかったという佐藤さんの説に私も同感です。
失われゆく「国土」「国民」
佐藤 9月5日、村上正邦さん(元労働大臣)が主催する「一滴の会」の勉強会で、沖縄の集団自決に関する教科書検定に対して、いま沖縄が保守を含めて大変な状態になっていると私が話したら、村上さんは、「どうして歴史の真実をねじ曲げようとするのか。一般の住民が手榴弾を持つはずがないじゃないか。なぜ手榴弾を持つんだ。何かあった時には自決しろという意味だろう。手榴弾を渡したという事例さえあれば、その瞬間軍の強制性が証明される。なぜつまらない議論をするんだ」と言う。
そして、この会にいつも出席している右派の理論家は、「それは大変なことだ。沖縄県と沖縄県以外のところでの世論がこれほど違う、温度差が出ているというのは、国民統合という意識において沖縄が外部になっているのではないか。それは拉致問題が選挙においても世論においても重要な問題になっていないのと同根だ」と言うのです。日本人が一人ひとりバラバラにされてしまって、自分のことしか考えない。つまりアトム(原子)的に分断されてしまったので、同胞についての想像力がものすごく狭い範囲にしか及ばない。だから、拉致問題は右側の、沖縄問題は左側の専管事項といったステレオタイプがあるのですが、その両方に対して一般に国民が関心を持たなくなっているのは、実は新自由主義を推し進めた必然的な結果なのです。
新自由主義と親和的なアトム的世界観が浸透することで日本の国民統合が壊れかけている。ナショナリズムの観点から見ても、小泉、安倍両政権が進めた新自由主義的改革の結果、日本国家は明らかに弱くなっている。
また、『週刊金曜日』に出ていた雨宮処凜さんと佐高信さんの対談が非常に面白いのですが、「『丸山眞男』をひっぱたきたい」という寄稿をめぐる議論で、佐高さんが殴る相手が違うのでないかと発言すると、雨宮さんは、〈たとえば30代のフリーターで年収が100万円。夢は?と聞くと、「年収300万円になって結婚し家庭を持ちたい」と言う。そんなことが夢になってしまうのが今の現実なんです。そんなささやかな夢さえ保障できない国がおかしい。浮遊、不安定だけでなくて今の状況は貧困であって、生存ギリギリの状態なんです〉(雨宮処凜/佐高信「戦後民主主義に希望はないのか」『週刊金曜日』2007年8月10・17日合併号)と現状を解説する。恐るべき事態です。まさに1845年エンゲルスが刊行した『イギリスにおける労働者階級の状態』に描かれた、プロレタリアートはその最底辺において家族の再生産すらできなくなるという状況が復元されているわけです。162年前にエンゲルスが書いたようなことが、いまの東京で起きている。
社会階級、階層という縦の構造の観点からも国家は弱っている。横の広がりにおいても、拉致問題、沖縄、それから北方領土や竹島問題は風化し、この国はこの6年の中でものすごく弱くなった、というのが客観的な事実です。
山口 「国土」という発想は、小泉時代に決定的になくなりましたね。宮内義彦オリックス会長、規制改革・民間開放推進会議議長が、公然と「北海道の人口は多すぎる。200万いれば十分だ」と発言したことがあります。北海道という広い島に隅々まで人間が住んでいるから行政コストがかかる、人がいれば学校も警察も消防も病院も置かなければいけない。彼らは「経営」という言葉が好きですが、国土経営の効率を考えれば、北海道は札幌周辺だけに200万の人間がいるくらいでちょうどいいんだというわけです。
佐藤 それは先ほど言った、熊のほうが多いところに高速道路をつくる必要があるのかという論理の延長線上ですね。
山口 全く同じです。ですから新自由主義には国土という発想はない。小さな政府をつくりたい人たちから見れば、田舎にしがみついて生活している人、つまり国際競争力もないくせに農業や漁業あるいは中小企業をやっている人間は、邪魔でしかないのでしょう。だからこそ今回の参議院選挙で、地方の一人区で人々は新自由主義に復讐した。
小泉時代というのはものすごく大きな政策の変化が起こったときで、政策決定の中枢部、経済財政諮問会議や規制改革会議、あるいは官邸にきわめて単純なイデオロギーが一気に浸透して、ほかのファクターを考慮に入れる視野の広いリーダーが本当にいなくなってしまった。驚くべきことです。
佐藤 中央にグーッと集中していって、今回安倍さんに起こったのは、原子炉がメルトダウンしたのではないですか。日本の政権が中枢から自壊して溶けてしまったような感じがします。
権力集中のハコモノづくり
山口 そこが実は一つの重要なテーマですね。
最近政治学では、小選挙区制や政党助成金の導入、内閣制度の改革といった90年代の制度改革によって日本の政治の装置が変わったという議論をよくしています。政党も内閣も非常に制度的には求心力が高まって、権力が一元化・集中化し、責任や権力の所在が明確になった。トップリーダーが大きな力を発揮することによって、かつてのようなヤマタノオロチのような自民党の体質が、いわば粛正され、非常に早い意思決定やダイナミックな政策展開が可能になった。結果として民意を背景としたダイナミックな民主政治が実現し得るようになったと、比較的肯定的な文脈で一元化・集中化という現象をとらえているわけです。たしかに制度のハコモノづくりという意味では、一元化・集中化が進んだことは確かです。小選挙区制では、党の公認がもらえなければ選挙には勝てない。
佐藤 党の公認をもらわずに選挙に出ると、ものすごく金がかかりますからね。
山口 政党助成金が入っているから、幹事長や経理局長という党の中枢部には逆らえない。さらに小泉時代に、小泉という人気者にぶら下がることによってラクして選挙に勝てるというか、風が起こったら自分自身はたいしたことなくても自民党公認というだけで選挙に勝てるという、非常に幸運な思いをした。そうすると個々人の政治家がどんどん脆弱化し、非常に同調主義が強まる。その結果、一元化、集中化が進んでいるというのが実態なのです。
自立した力のある政治家が活発に議論して党の意思を形成し、そこで話し合って決めたことを協力して推進していくという、本来想定していた一元化ではなくて、個々の政治家が非常に無力化してリーダーにぶら下がるという消極的な動機で同調主義になって一元化していくという現象がいま起こっている。権力集中、一元化のハコモノをつくったけれど、その中は空っぽだったということが今回明らかになりました。
佐藤 私はゴルバチョフ改革(ペレストロイカ)を連想しますね。ソ連という国家は疲弊してしまったので、最初は「加速化」、規律強化で体制の強化を図った。「共産党の前衛的な地位の強化」を言っていたけれど、あまりにも共産党がひどい状態だったから、党の前衛的役割、指導的役割を放棄して、今度は大統領に権限を集中しようとした。
そうすると、ゴルバチョフのお墨付きさえあれば何でもできるという感じになり、それで人事刷新をするので、ゴマすりが横行するのです。旧来のマシンというのは弱体化する。しかし新しいエリートはいまだ生まれてこない。
偶然生まれてきたエリートは、急に能力以上のポストに就いて、権限を得たということが何となく自分でわかっているから、旧来のエリートよりも特権にしがみつく。それで縮小再生産して、最後は内側からクーデターが起きてしまった、というプロセスなのですが、ソ連共産党の末期の、官僚が書記長や大統領の言うことを聞かなくなり、閣僚をバカにし始めていたときの雰囲気と、いまとても似ていますよ。
当時も、共和国独立採算制のような地方権力の強化を非常に言いながら、実態としては地方に金が行かなくなってしまった。それで地方では分離主義が出てくるのですが、あえて誇張して言えば、現在の沖縄の様子は、91年の独立につながる「歌いながらの革命」を言い出した88年頃のエストニアの雰囲気と似ている。
山口 おそらく一党支配システムの末路とは、資本主義であれ社会主義であれ、似たような形になるのですね。政治権力の担い手を育成していくということは、そう簡単な話ではない。いわゆる西側民主主義の国の多くは、複数の政党が競争する中で、特に野党の側から、次に自分たちが権力をとるためには、何をしなければいけないかについて考える動機があります。ニューレイバーをつくったブレアやブラウンがその一例であり、いまアメリカでは大統領予備選挙に向けて、民主党が権力をとるためには何が必要かについて1年半かけて延々と議論している。そうやってリーダーが鍛えられていくわけです。
一党支配システムはチャレンジャーが権力にぶつかることによって自分を鍛えていくというシステムを内包していないから、とても脆い。自民党が強かった時代は、派閥が擬似的な競争メカニズムを提供することで、そこからリーダーが育ってきたという面もありますが、皮肉なことに選挙制度改革や政党助成金によって派閥そのものの土台も崩してしまった。人材供給が先細りになっていくのは必然ですね。
政治家と新自由主義の問題については、選挙──選ばれるということの意味が、政治改革をはさんで変わってきたことも感じるのです。民主政治というのは一体何なのか。人々はどういう意味を込めて代表者を国会に送り出すのか。「9・11」選挙がもっとも顕著な例ですが、個々の地域での選挙民と民意との紐帯を一切断ち切って、上から「改革」というシンボルが降ってくる。この地域に郵便局がなくなると困るという人もいっぱいいるけれど、やはり民営化だという「正論」が、個別の地域事情をなぎ倒していくという暴風雨が吹いたわけです。
たしかに田中・竹下派政治は、地域地域のインプットが強すぎて、公共事業予算をばらまいて、無駄な投資が多かったのは事実です。それに対する反動で、今度は地域の個別の声を一切聞かずに、非常に巨視的な正論が個々の地域や個人個人の選挙民の意思や悩みを全部吹き飛ばすという方向に行ってしまい、小選挙区制あるいは首相主導といったような現象がそれを加速したということが、小泉時代における政党政治の変容だと思います。
有識者は地獄絵を示せ
佐藤 マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で言ったように、政治の世界では、代表する者と代表される者の論理連関がなくなってしまう場合があるわけです。おそらく現代は経済にも論理連関の崩れが生じているのだと思います。デリバティブのようなものが異常に肥大してきて、資本主義における過剰な投機が常態化した状況で、デイトレーダーをやっている「引きこもり」の人が3億円儲けたというような話が生じる。労働とそこから得られるところの貨幣の連関が崩れ、さらに代表と代表される者の連関が崩れてしまう。明らかに自らの首を絞める者を自らが選び出すということが平気で行なわれてしまうという構造になってしまった。
私は、このような状態が生じたのは有識者の責任だと思うのです。もちろん有識者の端の方に腰掛けている私にも応分の責任があります。現在の政治、社会の構造ではまずい、政治の世界というのは遊びではない、変なことをやると自分の不利益になる、本当にひどいことになるという地獄絵をちゃんと描かなくてはいけない。
沖縄の教科書検定問題にしても、歴史をどう見るか、官僚は何をやらないといけないのか、真実の確定とはどういうことか、一切無視したでたらめなパフォーマンスの中に入っていながら、それが看過されてしまっているのは、ポスト・モダン的な状況があるからだと思うのです。まさに「人生いろいろ」というような思想状況がある。しかし、「人生いろいろ」では許されない領域が政治にはある。国家の基本的な役割や枠組みをきちんと思想的に、「大きな物語」として描くことは、有識者の仕事です。
それと逆に、選挙に当選するためのイメージの技法は広告代理店を通じて異常に発達してしまった。代理店のつくったマニュアル通りにすれば当選するという構造的な新自由主義化。劣化ではなくて、新自由主義というものに慣らされ過ぎてしまって、それに対して機械的な反応をしてしまうような刷り込みが行なわれている。これは知力によって乗り越えないと、資本の力によって、人間が弱肉強食の世界に全部押し込まれていってしまう。これは文化の否定であり、民族や国家を否定することにつながります。
メディアも、ポスト・モダン的な状況の中で部数や売上だけを中心に考えると、個別の事件や局面での状況対応になりますね。その集積が日本国民をさらにバラバラな個体にする機能を果たしている。そうすると新聞や雑誌を読んでも、時代の大きな流れや、国際関係を動かす大きな力がわからない。刺激はテレビのワイドショーやインターネットで無料でいくらでも得ることができる。そうなると新聞や雑誌などの活字媒体は必然的に売れなくなります。
ですから、逆説的に、政治、外交、社会で生じている問題を、少し表現は難しくなっても、その構造について解き明かした論考を継続的に載せる媒体には、読者がついてくるのだと思います。活字媒体が歴史的に担ってきた啓蒙的役割を強化することが、商業主義的にも売り上げ増につながると思います。
いずれにせよ、新自由主義がここまで進むと次の段階として、「日本国家、日本国民がバラバラになったままではよくないから束ねよう」という動きが出てくる。これが福田康夫政権で出てくるかこないのか。出てくるとすれば、どういう形態になるのかに私は強い関心をもっています。
山口 内閣の中央集権化という制度的ハコモノづくりは進んでいるし、元に戻ることはないけれど、首相が変わったからといってハコの中を埋める中身が出てくるわけではない。福田さんにしても自民党が大変だから自分が出なければ、という以上のことを言っていません。権力中枢の空白というのは当分続くのでしょう。
しかもこういう状況は、いままで経験したことがない。官僚がそこでちゃんと実務を仕切ってくれるか。しかしいま参議院で野党が過半数を持っているという状況で、国会で否決されるなりズタズタに修正されるとわかっている状況で官僚が一生懸命いい法律をつくるはずはないと思います。そうすると、本当に空白を埋めるのは誰かという、途方もない大きな問題がこれから出てくる。
佐藤 ちょっと衒学的ですが、政治におけるポスト・モダン、近代の超克がついに完成した、これがその姿だということですよ。
新自由主義プラス保守主義という表象は、小泉さん、安倍さんの両方が使った。ただ、軸足は明らかに違って、小泉さんは基本的に新自由主義、安倍さんは保守主義に足を移そうとして、路線の根本のところから股割きになった。朝日新聞政治エディターの西村陽一さんが辞任直後の9月13日朝刊に署名記事を書いて、〈参院選では、憲法改正など保守色の濃い政権の課題と、年金や地方格差などの身近な国民の課題とのずれが表面化した。格差対策を念頭に「与謝野・麻生政権」ともいわれる新体制は、あいまいな「アナウンスなき脱小泉路線」に踏み出そうとしていた〉と指摘していますが、その通りです。
しかし、このような「アナウンスなき脱小泉路線」では、新自由主義の「負の遺産」を克服することはできません。西村さんは〈後継政権は早期に衆院を解散し、信を問うべきだ〉と主張しますが、私も賛成です。福田政権には選挙管理内閣としての性格だけを持たせて、政局がある程度安定したところで総選挙をするべきと思います。
新自由主義の小泉さん、保守主義の安倍さんの両方が去ったあとの、まさに空虚な空間に福田さんが出てきた。ここで私は、「ファシズムの強みは無理論なことだ」という宇野弘蔵の言葉が引っかかるのです。
福田さんは、対中国もハト派だ、ハンセン氏病患者の問題に関しては患者側の立場に立っていたと、国民にやさしい人なのではないかという印象がある。その辺りに今後権力基盤を強化する資源があると、権力者だったら誰でも考えるでしょう。そうすると、しばらくは権力の中枢から社会民主主義的な政策が断片的に出てくるのではないか。つまり、保守主義的なシンボル操作と同時に社会民主主義的なシンボル操作が出てくるのだけれど、社会民主主義のような合理性に基づいた構築はない。
そうするとイタリア社会党左派からファシズムが出てきたように、非常にこわい政治になる危険性があります。それは福田さんが強いがゆえにこわいのではなく、むしろ弱いがゆえに出現するこわさです。関数体、集合体としての権力はあり、権力にとどまりたい政治家や官僚がいるという状況で、イメージ操作だけで個別の局面を乗り切ろうとした場合、どうなるか。初動の段階では、それこそ「再チャレンジ」とか「格差是正」に資する断片的措置がとられる。あるいは周辺諸国と軋轢を起こさないために、靖国神社参拝問題については中国の要求を丸呑みするかもしれない。それは実は外交を一休みして、国内体制を固めるという意味合いをもちます。ここで、どのような国家の形が生まれるかが重要です。
ところで、いま右派は非常に疲れています。安倍政権の成立は右派の夢だったのですよ。私自身も安倍政権に対して、小泉政権の新自由主義を保守の立場から軌道修正してくれるのではないかと過剰な意味を読み込んでいた。その夢が時期尚早に実現し、かくも無惨に倒れてしまった。右派論壇はショック状態で、たぶん5年、下手をすると10年立ち直れないでしょう。ここで生き残りだけを中心に政治エリートと官僚が結び付いた場合、どういう絵姿になるかと思うと、私は空恐ろしいですね。また、政権側から社民的な、国民に対して優しい政策が出てくると、争点にならないから野党としてもなかなか闘えない。
新自由主義は過渡的な理念
山口 参議院選挙で、自民党が新自由主義でかたまり、小沢民主党が左によって社民的なアシェンダを出したことで、二大政党的なものがあらわれたようだと私は総括しているのですが、自民党が構造改革への反省からある程度社民化するとすれば、民主党もそれとの関係でどこへ行くかわからないという、また困った状況になる。
しかし、いろいろな国の事例を見ていると、新自由主義はあくまで過渡的な理念なのです。政府の領域、特に経済的な意味での政府の機能を縮小していくことには、どこかに終わりがある。一通りリストラが終わったあとで、政府が一体何をするのかと考え直せば、当然社会保障や教育、雇用に手をつけざるを得ないのです。やはり、普通の人がみんな大きなリスクを抱えて生きるという状況がはっきりしてくれば、何のために政府があるのかと、もう一回政府の役割を広げろという圧力が強まるのは当然の話です。
イギリスも、サッチャリズムの十数年をくぐったあと労働党が出てきてガタガタになった福祉国家の再建に取り組んだ。いまや保守党でさえサッチャリズムを忘れ去って、新自由主義的な政策を正面から出す人などいません。大きな社民的な合意の中で、政党間の対立は程度の違いに収斂していくということは、現に起こっている。そもそもドイツもフランスも出発点が福祉国家で日本よりもはるかに大きな政府ですから、大きい小さいと言ってもしょせんは定義の違いに過ぎない。
日本では、ほんとうはもっと壊すべき利権や官僚の特権は手つかずで残っているが、小泉時代に社会保障と地方交付税をめちゃくちゃに削った結果、国民が大変苦しんでいるという状況がはっきりすれば、政権与党にしても社民化するのは当然です。
だとすると、民主党が生活重視を打ち出して参院選に大勝したのですから、与野党はそれぞれその延長線上でより体系的な社会保障を中心とした政策の体系を示していって、どちらがより信頼できるかという政策論議をしていくしか道はないのではないでしょうか。「改革対生活」のような抽象的なスローガンで議論をする段階は卒業ということですね。
佐藤 すでにその徴候は出ていると思います。鳩山由紀夫さん(民主党幹事長)が「福田さんのいう『自立と共生』はこちらが言っていたことだ」と批判しましたね。しかしそれでいい。野党がきちんとした社会民主主義的なプログラムを組む。それを政権側が権力基盤を強化するために盗む。盗まれた民主党のほうはけしからんと思うだろうけれども、国民の観点からは、それで社会民主主義への方向に半歩でも、四分の一歩でも近付けばいい。
最近ようやくわかったのですが、保守主義というのは地の思想なのです。だから自分でどういう論理を持っているのかわからない。この地の思想を規定し批判する左翼思想、進歩派の思想が出てきた時に、初めてハッと気がついて、その左翼思想を踏まえた上で超克するような保守思想をたてていくという構成なのです。つまり、ルソーがいなければエドマンド・バークは生まれなかった。
日本の保守思想で、最近ろくなものが出てきていないのは、裏返すと、左派思想でろくなものがないからです。左派思想が強くなれば全体的に保守思想も強くなる。だから左派から本当に構築主義的で、なおかつこれが国民全体のためになる、しかも排外主義のほうに向かないという思想をきちんと組み立てる必要があるのです。いま政治家は、主観的にはいろいろなことをやりたいのです。そのためには思想、「大きな物語」が必要なのです。
しかし、官僚の持っている技術的な知性はそれとは違います。運動や政治をやる時は必ず理論が要る。この20年、理論や思想の問題を全く放置してきたツケがきて、現在のような政治と社会の閉塞状況が生じているのだと思います。日本の政治エリートは、枠組みを構築する能力が弱くなってしまったのです。有識者がそれを補強しなくてはなりません。
山口 福田政権にとって大きな障害となるのは、一つは経済界、もう一つは財務省、官僚機構でしょう。小泉─安倍政権時代の6年間、経済界の影響力が政治に構造的に組み込まれてしまっていて、経済財政諮問会議、規制改革会議には必ず日本経団連の会長など幹部が委員として加わる。このコントロールタワーが予算編成の仕組みや手続きをかなり変えている。資本の圧力をどう弱めていけるか。自民党だってお金をもらわなければいけないという事情があり、従来の小さな政府路線を否定するのは、そう簡単な話ではない。だから今回の総裁選挙でも、麻生も福田も改革というシンボルは捨てていない。改革を継続しながら、弊害について若干目配り配慮するというぐらいの位置づけでした。
また財務省は小泉─安倍政権時代に歳出削減という大目標に関しては非常に大きな力を取り戻した。歳出削減に関して言えば、財務省にとって、いまほどよい政治的環境はないわけです。福田政権が与党でありながら政策を社民化させるというのは簡単な話ではないでしょう。
佐藤 だから社民化するような表象を使いながら、いろいろブレると思うのです。繰り返しますが、私が福田内閣にいちばん期待するのは、立派な選挙管理内閣になってほしいということだけです。それ以外の余計なこと、特に憲法改正にかかわることは一切しないでほしい。この間に民主党は構築主義的手法を用いて新自由主義を克服する戦略を準備する。それから北海道と沖縄では地域主義が台頭し始めていますから、その動きによる第三極にも期待しています。
── 民意も非常にスイングしますね。アトム化した人々ををうまくコントロールし、束ねる人が出てきたら何が起こるか。
佐藤 小泉さんのような徹底的な新自由主義者の勝負師で、ひたすら破壊という人ではなく、その先の構築もポピュリズムに基づくイメージ操作を中心にして行うという発想を持つような人が出てきたときが要注意です。いまわれわれは気づいていませんが、そういう人はすでに政界にいるかもしれない。あるいは今は政治の世界に出てない人が、ポピュリズムの波に乗って、国民的救済者という表象で出てくるとき、われわれはファシズムに対する免疫があまりないので、どういうことになるか。毅然たる国家と、少し生活が上がるということ、ここのところで糾合される可能性はあるかもしれません。
裏返して言えば、安倍政権の最大の成果は、安倍さんのやり方をもってすれば、ファッショ体制を構築することが可能だったにもかかわらず、その選択をせずに自壊の道をとったということですね。歴史認識をめぐって自らがもつ先入観(偏見)からなかなか離れられないということでも、民衆の熱狂を嫌うというところで、安倍さんは体質的にバークが言うような保守主義者だったのだと思います。
「戦後レジームからの脱却」が行き着いた先
山口 基本的には安倍政権の自滅は日本の民主主義にとっては喜ばしいことで、集団的自衛権の正当化も吹っ飛ぶでしょうし、憲法改正は当分無理でしょう。
佐藤 それはとてもよいことです。歴史認識について、「戦後レジームからの脱却」が結局行き着いたのは、「慰安婦」に関するワシントンポストの6月14日付意見広告です。あれに名を連ねた人たちは、あのような形態で歴史認識問題をアメリカ世論に叩きつけることで、具体的にどのような展開が開かれると考えているのでしょうか。
山口 右派的言説を非常に粗野な形で表舞台へ出したがために、自らの知的な浅さを露呈して国際的な信用を失った。
佐藤 日本外交の論理整合性が外部観察者にはわからなくなっています。例えば、安倍さんが進めた価値観外交とは普遍主義の構成をとっています。それに対して安倍さんが唱える「戦後レジームからの脱却」は日本の個別性、特殊性という考え方に基づいています。外部観察者からは、価値観外交と「戦後レジームからの脱却」は両立しないように見えます。だから、すべてが絶対矛盾の自己同一みたいな世界で、外部観察者から見ると、やはり東洋の神秘だと(笑)。論理連関がわからん、もう一回ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読まないといけない(笑)ということになるのです。
── 確かに国際社会の中では全く空虚空白に見えるでしょうね。
佐藤 空虚というか、虚数軸でできているような世界です。普段は見えないが、姿が見えるときは、虚数と虚数が掛け合わさってマイナスになるときだけです(笑)。
同時に、安倍政権で評価をしないといけないことは村山談話の継承だと思うのです。とりあえず内閣総理大臣として日本の国家の政治的な最高責任者が約束したことは継承する、という、ごく当たり前の保守主義者としての行動をとった。河野談話においても同様で、やはり評価すべきだと思います。あれだけの支持率を初動のところで持っていたのだから、安倍さんは違う選択ができたでしょう。しかしそれをしなかったというのは、彼自身にはポピュリズムに依拠しない、大衆的熱狂に依拠してはいかんという発想が主観的にはあったと思うのです。
ところが安倍さんは、ポピュリズムの中で出てきた小泉政権の落とし子だった。新自由主義を母体として、常に物事を動員して流動化していくということが権力基盤を強化する重要な道具であるという考え方から離れることができなかった。そしてそこから権力基盤を失うことになった。保守主義者でありながら、新自由主義的なアトム的個体を動員するという保守主義を内側から壊す手法もとった。このひび割れは最初、小さな線に過ぎなかったのですが、あっという間に拡散し、権力が自壊したのです。政治というのはそれぐらいおそろしいものだということだと思います。
ちょっと突き放して言うと、ヘーゲルの『歴史哲学講義』を思い出すのです。歴史というものは、実際は英雄たちがつくる。政治家たちがつくる。政争があるから、その中で敗れてみんなボロボロに傷ついていく。しかし歴史の理念は動いていく。ヘーゲルは、〈世界史上のできごとは、肯定面と否定面をあわせてもつ。特殊なものは大抵は一般理念に太刀打ちできず、個人は一般理念のための犠牲者となる。理念は、存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱をもって支払いにあてるのです〉(『歴史哲学講義(上)』岩波文庫、1994年、63頁〜64頁)と述べていますが、このように5年間は鈴木宗男さんが支払いをし、今回は安倍さんが支払いをした、それだけのことだと思います。
問題は、「歴史の理念」のほうをどのようにして回していくかというところではないかと思うのです。
私は、保守主義と社会民主主義の双方がシーソーゲームをすることを可能にしている「大きな物語」を作ることが、「歴史の理念」に適うと思います。いずれにせよ、第二次世界大戦後の日本でこれほど有識者と政治の距離ができてしまった時代はないと思います。この矯正がわれわれ有識者側に課された焦眉の課題と思います。
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