大連立構想を自身の党の幹部に否定され、突如党首の座を投げ出した小沢一郎氏が何を考えていたかについては、私も各種メディアの論評を読むだけで、何ら付け加えることはない。この十数年、政権交代可能な政党システムの構築を主張し続けてきた者として、小沢氏にどのような錯誤があったのかを明らかにし、今後の民主党の再建の方向について考えてみたい。
民主党が政権に参加することと、政権交代を起こすことは、まったく別の事柄である。そして、日本にとって必要なことは、政権交代であり、民主党の政権参加ではない。この数日の動きを見て、小沢氏にはこの識別がまったくできていなかったと痛感する。
政権参加は連立の組み換えですぐにできる。政権交代は選挙によってのみ起こせる。七月の参院選で国民が示した意思も、自民党に代わって政権を担える政党が出現してほしいという願望であった。まして、安倍晋三前首相のぶざまな退陣によって自民党が政権担当能力の欠如をさらけ出した後であり、民主党は早期の解散総選挙によって、国民にどちらの政党に政権を預けるか、選択の機会を与えろと主張し続ければよかったのである。現在ドイツでは大連立政権が国を統治しているが、これも選挙の結果を受けて生まれたものであり、単なる政党の離合集散の結果ではない。
大連立については、国政の停滞を放置できないというもっともらしい正当化もある。しかし、そもそも福田康夫政権は国民の負託を欠いた、正統性なき政権である。だから、福田政権が国家の命運を左右するような重大な政策を決定してはならないのである。自民、民主の大連立ができたとしても、両党が選挙協力をすることは不可能であり、その連立政権は次の総選挙までの短命政権であることは不可避である。参院選のマニフェストで示した政策をそのような暫定的な政権で実現できるはずはない。
そもそも政党とは、政党政治とは何かを基本に返って復習しなければ、大連立騒ぎはこれからもねじれ状態の国会に時折蜃気楼のように現れるだろう。政党は英語でパーティといい、その語源は部分(パート)である。つまり、政党は最初から全体を代表することはできない存在である。政党はその主義や理念に基づいて社会の中のある人々、ある利害を代表し、公共空間に表出する。そして、様々な部分的な主張が公共空間でぶつかり合うことを通して全体を統括する政策が出来上がる。政党はまず自己主張をしなければ、公共的空間も成り立たない。
野党として自己主張を続ければ、与党から国政の停滞という攻撃が浴びせられる。大連立は、政党の主体性を放棄し、見せ掛けの全体に引き込もうとする誘惑である。高々数時間の党首会談で敵対勢力との合意が見出せるほど、民主党の自己主張はいい加減なものだったのか。小泉、安倍時代に推進された改革路線も所詮はある部分の利害を反映したものであった。この路線で打ち捨てられた部分の利害を代表したのが参院選における民主党だったはずである。民主党が政権をとりたいならば、自分たちの代表している部分の利害を徹底的に主張し、それを公共的な政策に鍛え上げるしか道はないはずである。また、そうした姿勢に徹すれば、数か月の政治的空白は政党政治を確立するための助走期間として国民にも許容されるであろう。
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