「作為」と「自然」とは、初期の丸山政治学の重要な概念である。政治や社会の諸制度を自然の所与と考えるのではなく、人間の作為によって構築されるものと考えるところに、近代的な思考が始まったと丸山真男は言う。政治学を志す者にとってはおなじみの枠組みであるが、最近の地方の衰弱を考えるとき、私はこれに対してある種の限界を感じている。
住居移転の自由も職業選択の自由も基本的人権の1つであり、近代社会の地域コミュニティも理論上は人々の自由な意思によって形成することになる。もちろん人間は生まれる場所や家庭環境を選べないのであって、世の中の現実は理論どおりには行かないこともまた常識である。ところが、最近の新自由主義イデオロギーは理論を極端に突き詰め、世の中を作り変えつつある。その弊害は、地方の衰弱という形で現れている。
小泉政権時代に規制改革会議議長として規制緩和に大きな影響力を振るった宮内義彦・オリックス会長は、北海道の人口は2、3百万で十分だと公言したことがある。なまじ田舎に人がへばりつくから教育、警察、医療などの公共サービスを供給しなければならず、そのことが小さな政府の邪魔をすると彼は言いたかったのであろう。この発想においては、行政の庇護に頼らなければやっていけないような1次産業、建設業などに従事する者は、構造改革の障害ということになる。小泉政権が退陣した後も、この基本的な流れは継続している。交付税削減など、最近の地方に対する冷酷な仕打ちは、雇用や医療がないと嘆くならさっさと都会に出て来いと言わんばかりである。
新自由主義イデオロギーに基づく地方分権論は、住処や仕事など、本来人間が選択できるとは限らない事柄にも選択の自由というフィクションを当てはめる。逆に、過疎地や衰退産業に人がしがみつくなら、それは自由な選択なのだから、その結果については自己責任が求められる。新自由主義は、作為の論理を極限まで追求する点で、近代の鬼子である。
私自身も、所与だの自然だのを退けることが近代的な民主主義の発想だと考えてきたのだが、今その辺の確信が揺らいでいる。生まれ育った地域に住み、家業を受け継いで地道にコミュニティを支えている人々が途方に暮れるような政治が許されるはずはないと思う。都会でも、小学校の自由選択制を導入すれば、コミュニティの解体はいっそう進むに違いない。また、選択の自由を神聖視することが、郊外の大型店を繁栄させ、都市中心部を衰弱させた。
もちろん、身分、性別の上下関係をすべて自然の与件とみなすような時代に戻ることはありえない。今求められているのは、作為と自然の新たなバランスである。長年住み慣れた地域であっても、そこの住民であることを時々選びなおすという思考実験をしてみる。そうすると自治を担う新たな住民意識が生まれてくるのではなかろうか。
(分権型政策制度研究センターニュースレター第14号)
|