規制緩和や市場主義を柱とする新自由主義が、日本社会の奥底を揺さぶっている。格差と貧困の現実が浮かび上がり、戦後日本の「平和」や「平等」の価値観も揺らぎ始めた。戦後政治の枠組みは、どんな転換のただ中にあるのだろう。「ポスト戦後政治への対抗軸」(岩波書店)で現代日本の政治構図を分析した、北大教授の山口二郎さん(政治学)に聞いた。
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戦後政治は、政治的な対立軸を無化するような強力な磁場があった。60年安保までは、資本主義か社会主義かといった体制選択をめぐる鮮明な対立軸があったが、その後は保守革新という対立図式はありながら、体制内の役割分担のようなものだったと言える。
戦後社会の価値の基軸は平和と平等で、保守もそれを共有した。自民党が平和憲法を利用しながら経済成長を図り、その果実を政治の裁量で再分配し、一定の平等を確保した。そこに一億総中流社会が出現する。
左派は、いわば絶対主義を唱えて警告を発する役目に甘んじてしまう。公害を批判し、平和を叫んでも、結局それは自民党政治が政策を微修正するメカニズムに吸収されてしまう。そして、裁量行政や利益分配と違う別の社会システムを構想するビジョンなどは、持ち合わせもしなかった。
*能天気な議論
「改革」という言葉がなぜ、新自由主義の専売特許になってしまったか、考える必要がある。消費者主催といった言葉は、生産よりも生活の充実を重視する。規制緩和や市場開放が実現すれば、モノやサービスの値段が下がり消費者が豊かになるという脳天気な議論が、まかり通っていく。
でもそこで、消費者が選択の自由を享受することが自分たちの生産者としての仕事を脅かすという逆説は、意識されなかった。その利益を享受できるのは実は限られた人間だということが、今になると分かってくる。
社会を批判する言葉も高度成長後の豊かさを暗黙の前提に、文明批判のようなものになった。
人間が資本主義に巻き込まれて主体性を失い、消費する部品のような存在になるとされ、平等は画一化や均質化というイメージを伴うようになり、平等からの離脱が求められる。だが、一億総中流を実現した豊かさの土台が1990年代に地滑りを起こすと、生活の糧を得る労働の基盤が掘り崩されていく。
実は政治の基本にあるのは富の再分配だ。今の「改革」言説がおかしいのは、富を強者に再分配すれば改革と呼ばれ、弱者に再分配するとバラマキと呼ばれることだ。「改革」という言葉は、それほどに偏った価値判断が潜んでいるが、私たちはそれを自覚できていない。
しかし、左派は何が改革かというビジョンを、自ら定義できなかった。弱者を大切にする社会を構想する対抗言説を、打ち出すのを怠ってきた。
*左は無人の野
国民は、決して市場原理一辺倒の世の中を望んでいない。昨年の参院選で自民党が大敗したのは、「改革」に対する不安の表れだ。だがその気分の受け皿がない。いわば大きな政治的空白があって、右に新自由主義という巨大な極があるのに、左側は無人の野で、そこに潜在する声を誰も受け止めない。
そこに現れたのが固定化する階層秩序の現実で、それを壊すのは戦争しかないという極論を唱える論者さえ、若い世代から出てきた。それほど希望がない状況に人がいることを、真正面から受け止めないといけない。
戦後日本とは、グランドデザインがなくても平和で豊かに暮らせる時代だった。だが、今はそれでは成り立たない。今の課題は「平等」をいかに回復するか、ということではないか。それは競争か連帯か、という対立軸で言い表すことができる。
短期的に自分がどれだけもうけるかを考えるのか。あるいは「平等」を軸に、他人を支えつつ自分も支えられるような持続的な社会を構想するのか。日本もそろそろ、新しい社会のパラダイム(思考の枠組み)を打ち立てる時期に来ているのではないかと思う。
(インタビュー/信濃毎日新聞2008年01月07日)
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