江田五月氏らが革新側からの政党再編を目指して社会民主連合を立ち上げてから、ちょうど30年がたった。同党の代表だった江田氏が今や参議院議長であり、市民運動出身の同志だった菅直人氏が民主党代表代行を務めていることを思えば、社民連というミニ政党を作ったことは、その後の日本政治に大きな影響を与えたと評価することができる。
社民連は、五月氏の父で、社会党改革の志半ばで倒れた江田三郎の遺志を継いで作られた政党であった。三郎は、一九六〇年代前半に「構造改革論」を唱えて、当時の社会党を政権担当可能な政党に改革するという課題を追求した。しかし、社会党には教条主義的な左派が多く、江田三郎は失意のうちに社会党を去り、亡くなった。この構造改革は、市場経済の純化を目指す小泉純一郎政権の構造改革とは正反対の理念で、資本主義経済がもたらす歪みを政策の力で是正し、働く者の人間性を尊重する市場経済を造り出すことを目指していた。
江田三郎のビジョンは、権力闘争の次元では頑迷な左派に敗れた。しかし、巨視的な構造としてみれば、資本主義経済の懐の深さに敗れたということもできる。六〇年代から七〇年代の日本は高度経済成長を遂げ、一応の平等や豊かさを実現した。江田ビジョンにあった、「アメリカの生活水準」、「イギリスの議会制民主主義」、「ソ連の社会保障」という、当時発展途上だった日本にとっての到達目標は、かなりの程度達成された。池田勇人や宮沢喜一など、ほかならぬ自民党の開明的政治家が、江田ビジョンを自分たちの方法で追求した結果が、一億総中流社会であった。資本主義経済は、社会主義という強大なライバルが存在した時には、自らの構造を修正して、労働者を体制の受益者に組み込んだ。
戦後の日本政治を構成した五五年体制が腐食し、新しい政党システムが必要だという声は、冷戦が終わり、バブル経済が崩壊した九〇年代から急速に高まった。しかし、この時期革新勢力はむしろ衰弱を重ねた。革新勢力が唱えてきた平等という価値のために再分配のシステムを強化することはこの時期の政策課題ではなかったことも、その理由の一つである。バブル崩壊から一五年くらいの間、経済成長の貯金がまだ存在し、人々は生活の問題を真剣に考える必要はなかった。むしろ平等を実現するために自民党と官僚が作り出した仕組みが、腐敗や非効率など制度疲労を起こし、これを分解掃除することが、この時期の政策課題であった。天上の江田三郎が見たら怒るだろうが、二一世紀初頭の構造改革は、平等を解体する作業であった。
社会主義体制が崩壊し、資本主義経済に対するブレーキがなくなった影響は、世界的な経済の不安定化、国内における格差貧困問題の深刻化など、様々な形で現れている。地球環境問題についても、利益追求を放任していては絶対に解決しない。資本主義経済が傍若無人になった今、ようやく、社会的観点から資本主義経済を制御するという江田三郎や社民連の問題提起が現実的な意味を持つようになった。社民連が提起した理念を今引き継ぐのは一応民主党であるが、その民主党が「生活第一」を掲げて、昨年の参院選で構造改革を推進した自民党を破ったことも、そうした変化の表れである。
江田三郎は社会党史上最大の論争を提起し、社民連は五五年体制の中でドンキホーテのように立ち上がった。いずれも、政治の世界で理想を追いかける大きなエネルギーの所産であった。自民党が存亡の危機に立ち、民主党が初めて政権交代の好機を迎えている今、日本の政党政治は大きな分水嶺に立っている。政局や権力闘争を否定するつもりはないが、これからの政党政治を豊かなものにしていくためにも、どのような日本社会を作りたいかという理想、ビジョンを語る作業が必要である。社民連の向こう見ずさから学ぶこともあるはずである。
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