先日新しい学習指導要領が公表され、ゆとり路線からの転換が明らかになった。教育論議の最大の不幸は、事実や根拠に基づく政策論が欠如していることである。その弊害は私のいる大学にも押し寄せている。
この十数年、大学は大学院重視、研究重視、教養教育重視と、いろいろなものを重視させられて、無限の制度いじりを重ねている。重視というのは、他のものを多少後回しにしてもそのことに重点を置くという意味である。だから、あらゆる事を重視せよと言うのは、すべてを軽視することと同じである。
私の大学でも、入試の改革だの学部の再編だのと改革熱は冷めていない。大体、大学改革に血道を上げるのは、研究者として「上がった」人々であり、研究や教育の現場を知らないものである。
文科省の覚えをめでたくするために珍奇な制度いじりを繰り返し、作文ばかりが増える。その種の実務は働き盛りの学者に押しつけられるため、教師として学生に自らの存念を伝えることや、研究者としてライフワークに取り組むことが、どんどん難しくなる。レストランにたとえれば、コックを店の改装に動員し、肝心の料理がおろそかになるようなものである。
教育者、研究者として当たり前のことを当たり前にできるような環境を整えるのが本来の改革のはずである。霞ヶ関で最も無様な朝令暮改を繰り返している文科省などのご機嫌を取り結ぶ必要はない。
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