サミットの主要なテーマは地球環境の持続可能性である。もちろん、生物としての人類が生き残るためには、地球環境を守ることは大前提である。それと同時に、サミットを契機に社会の持続可能性にも目を向ける必要がある。持続不可能な社会システムを続けることは地球の持続可能性を破壊し、逆に、持続可能な社会システムを作れるならば地球の持続可能性も維持できるという関係が存在するからである。
一九九〇年前後に冷戦が終わり、資本主義体制が世界を制覇すると共に、市場における利益追求を放任する新自由主義という理念が世界の経済ルールとなった。規制緩和や民営化を基調とする日本の構造改革もその一環である。これらの政策は一面で経済の活性化をもたらしたのかも知れないが、様々な歪みを生み出し、それが社会の持続可能性を脅かしているのである。これは日本のみならず、先進国共通の問題である。
新自由主義には、あらゆる価値を金銭という単一の尺度で計るという単純性と、今この瞬間に最大の利益を上げようとするという近視眼性という二つの大きな落とし穴がある。営利追求を第一に考えるならば、お金で買えないものはないという価値観のとりこになる。言うまでもなく、人間の生命や尊厳は金では買えない価値だが、企業が業績を上げるためサービス残業が横行し過労死が頻発する。長い目で見れば、労働者に家族を養えるだけの経済的、時間的余裕を与えることが社会の持続に望ましいはずだが、個別の企業が当期の利益を優先させれば、安上がりの非正規雇用を増やすという結果になる。
先日、東京秋葉原で将来への希望を失ったと称する若者が大量殺人を犯し、社会を震撼させた。殺人事件そのものには同情の余地はないにしても、人間をもの同然に扱う労働の世界の変質が、未来に希望を持てない若者を大量に生み出していることは事実である。コスト削減の論理を極端に推し進めると、どこかで社会にしわ寄せが出ることをあの事件は教えている。
グローバル化といえば、この十数年、市場を解放する方向での政策の標準化が進んだ。グローバル・スタンダードという掛け声の下で、規制緩和や民営化など小さな政府を求める動きが各国で進んだ。しかし、投機の行き過ぎによる金融不安や食料、エネルギー価格の高騰は世界的な問題となっている。いまや、人間の生活と尊厳を守るために市場における利益追求に歯止めをかけるという方向でのグローバル化が必要となった。
こうした関心による政策的取り組みは、ヨーロッパではある程度の蓄積を持っている。我々にとって特に参考になるのは、「社会的排除−包摂」という概念である。人間を使い捨てにする社会では、十分な賃金を得られないワーキングプアや医療や介護を受けられない高齢者が排除されていく。しかし、社会的排除がまかり通るような社会は、みなにとっても住みやすい社会ではない。そこで、人間が誇りと尊厳を持って生きられるように、就労支援、育児支援などの社会的な土台を整備する必要がある。これが社会的包摂と呼ばれる政策である。
環境制約のみならず、社会的観点からも、資本主義経済の奔流に対する反省の念は広がりつつある。日本では、小林多喜二の『蟹工船』が読まれるご時勢となった。とはいえ、市場を否定し、社会主義体制を取ることは、選択肢にはならない。市場を前提としつつ、人間の尊厳を守るという観点から、これにどのようなルールを課するかを議論することこそ、世界の指導者の役割である。格差社会がブームとなったことには十分理由もあるし、世界的な広がりもある。このブームを一過性のものに終わらせないためにも、人間の顔をした資本主義経済とはどんなものか、サミットの場で議論を深めてもらいたい。
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