転換期という言葉はいつの時代にも使われてきた。昔の雑誌を読んでいると、今から思えば高度経済成長の黄金時代であった一九六〇年代半ばでも、「転型期」という言葉が盛んに使われていた。現状に満足する人は不確かな未来への不安ゆえに、現状に不満を持つ人はよりよい将来への希望ゆえに、それぞれ変化や転換という言葉で同時代を捉えるのであろう。
とはいえ、今は日本の政治にとってかつてない本当の転換期だと私は考えている。それを一言で表せば、自民党という政党が日本を支配することが当たり前であった時代が終わろうとしているということである。福田政権の支持率は二〇%前後を低迷しているが、より重要なのは政党支持率である。今までも一時的に野党の支持率が上昇することはあったが、選挙のない平常時に与野党の支持率が拮抗することはなかった。昨年の参議院選挙以来一年間、自民党と民主党の支持率が一貫して拮抗し、時によっては民主党支持が上回るなどという事態は、未曾有のことである。それだけ政権交代への期待が高まる、あるいは抵抗が薄まっているのであろう。
政権を担える政党が増えるということは、民主政治にとってよいことである。しかし、政権交代を起こすことが、国民自身によってよりよい社会を造り出すことにつながらなければ、政党政治への期待はすぐに冷めてしまうだろう。その意味で、政党の政権構想を鍛える作業こそ、急務である。幸か不幸か、福田政権は解散を先送りしようとしている。それだけ、政策を論じる時間が増えたと考えればよい。そして、政策論議においてメディア、就中、活字メディアが果たすべき役割はきわめて大きい。
小泉政権の時代から、政治家はメディアを積極的に利用し、政治家は政治を分かりやすくすることに腐心するようになったと言われる。しかし、私はメディアが政治を分かりやすく伝えているとは思わない。小泉氏が政治を分かりやすくしたと評するメディアがあるならば、それは評者の無知をさらけ出すようなものである。分かりやすく報じることと単純化することは異なるのである。
たとえば今、後期高齢者医療制度が高齢者の批判を集めている。しかし、小泉構造改革を批判的に論評してきた者から見れば、ようやく気づいたかと言いたくなる。医療難民、介護難民の発生、非正規雇用の増加によるワーキングプアと呼ばれる貧困の深刻化。今の日本を脅かしている問題はどれをとっても、小泉時代に行われた政策選択の必然的な帰結である。数年前、ほとんどのメディアはこうした政策転換を「改革」ともてはやした。改革という言葉の具体的な意味を詮索したメディアはどれくらいあっただろう。
民主政治において国の運営に誤りなきを期するには、言葉の意味を見極めることが不可欠である。先日公開された『実録連合赤軍』という映画では、四〇年前の学生運動において、「革命」や「総括」という言葉が、意味を覆い隠されたまま集団的興奮を作りだし、リンチ殺人という悲惨な結末に至る様が描かれていた。これは極左集団の特殊なエピソードではない。つい最近の構造改革は、方向の違う「総括」だったのではないか。
私はテレビには期待していない。我々自身が経験するように、話し言葉ではいくらでもごまかしがきく。ネット空間に飛び交う言葉は一見書き言葉に見えるが、感情をそのままぶつけ、読み直しを経ていないものであり、話し言葉に近い。言葉の意味を詮索し、じっくり考えるためには、活字メディアの書き言葉が必要である。最近、記者や編集者の友人と話をしていると、活字メディアはどこも厳しい経営環境にあるとのこと。しかし、人々は信頼できる情報に飢えている。政治の転換期こそ、活字メディア、とりわけ新聞の力量が問われる時である。
|