政局も夏枯れ状態で、話題といえば民主党の代表選挙くらいである。前原誠司前代表のように、代表時代に無能さをさらけ出し、党を存亡の危機に追い込んだ人物を、単に小沢一郎代表に逆らうというだけで持ち上げるメディアにも困ったものである。
それよりも気になるのは、民主党が政権交代に挑む際に必要とされる政策能力という言葉の使われ方である。前原や多くのメディアは、民主党の政策が財源の裏づけを欠いたバラマキであると批判する。また、21世紀臨調などマニフェストの運動を進める人々も、財源の明確化を求めている。確かに、財源の当てもなしに大盤振る舞いを公約するのは無責任であろう。私自身、日本でこれから福祉国家を実現するためには、いくつかの分野で国民の負担を増やすことは不可避だと思っている。しかし、野党の政策構想に対して、具体的な財源を明記することを金科玉条のように要求する議論には、違和感を覚える。
そもそもマニフェストがない選挙は無意味だというなら、2005年の総選挙こそ無意味の最たるものであった。小泉純一郎首相(当時)は郵政民営化の単一争点で選挙を戦い、三分の二の多数を獲得した。その後の自民党政権は、この絶対多数の上に、テロ特措法の延長や揮発油税の暫定税率の延長など、前回の総選挙で国民には一言も予告しなかったことを次々と決定している。その意味では福田政権など、公約違反の塊である。マニフェスト運動に熱心な人々が、なぜ福田政権の反民主性を批判しないのか、不思議である。
私はマニフェストの意義を否定しているのではない。選挙の際に政党が具体的な政権構想を打ち出すことには意味がある。しかし、マニフェストはパソコンの仕様書ではない。根底に思想が存在しなければ、マニフェストは無意味である。この点をマニフェスト運動は誤解している。本場イギリスのマニフェストも、細かい数字よりも、どのような社会を作りたいかという理念を前面に押し出している。
今の日本の最大の問題は、若者が将来に希望を失い、高齢者が医療難民と化すという、人間の尊厳が無視されている状況である。政党が何よりも先になすべきことは、これにどう取り組み、人間の尊厳を回復するかを具体的に語ることである。瀕死の重病人が目の前にいるときに、まず入院費用の算段をするならば、それは人非人の所業である。野党の政権構想に対して、財源をどうすると小姑のように問い詰めるのも、同様な話である。病気の治療費は元気になってから考えればよいという開き直りも、今はむしろ必要である。
もちろん、私は民主党の政策に満足しているわけではない。それは、財源が不明確だからではなく、理想を語れていないからである。人間の生命や尊厳が軽んじられているこの時代に、政党が理想を語れなければ、存在意義はない。
政権交代を目指す民主党にとって、ここで大々的な代表選挙を行う必要はないが、政権構想を固める全党的な作業は不可欠である。5年、10年先の遠大な構想ではなく、小泉から福田の時代にかけて、改革という名で進められた社会と経済の破壊をどのように復旧するかが中心となるべきである。
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