もうすぐ85歳になる私の父は、まだ元気で、横浜で一人暮らしをしている。上京の際に時折会うが、最近は戦争の体験について話を聞くことが多くなった。政治的には決して進歩的な考えの持ち主ではないが、やはり人生の終わりが近くなると、戦争の愚かさを言い残したいと思うのだろう。
父は、同世代の優秀な人から順に戦場で亡くなったと言う。その人々が戦後日本で活躍していれば、日本はもっとすばらしい国になっただろうにという悔いがずっと残っているそうである。戦争における死は、すべて非業の死、無念の死であるとあの時代を生き延びた者は断言する。私たちの世代にできることは、その無念さを想像することだけである。
おびただしい無念の死の上に築かれた戦後の平和と民主主義を転覆するなどという浅はかな企ては、安倍晋三の無様な退陣により、とりあえず頓挫した。
しかし、それを喜んでいる場合ではない。世界では、無念の死が繰り返されている。為政者が年中行事のように戦没者に対して平和を誓うなら、なぜ、アメリカがイラクで犯してきた犯罪的な戦争に荷担したことを反省しないのか。口先の平和こそ、戦死者を冒涜するものである。
非業の死を少しでも減らすことこそ、私たちにできる鎮魂の作業である。
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