与野党ともに選挙ムードは高まり、十一月末に総選挙が行われることが確実となった。この選挙の課題について、改めて考えてみたい。民主党や小沢一郎に不信感を持っている市民派の方々に、政権交代の意義を説得するのが本稿の目的である。
本誌をはじめとする左派、進歩派系のメディアにおいては、自民党も民主党も碌なものではない、選択肢がないのは嘆かわしいといった類の議論がしばしば見られる。しかし、その手の純潔主義ほど政治の進歩を妨げるものはない。所詮政治というものは、より小さい悪(lesser evil)の選択なのである。
民主党は信用できないと言われれば、私も全面的には否定しない。マルチ商法業界から怪しげな金をもらったやつがいる。実に嘆かわしいことだと私も思う。しかし、民主党が政権を取ったら改憲に着手し、戦争の片棒を担ぐというのは、被害妄想である。民主党を軸とした非自民連立政権は、小泉政権以来の自公政治によってずたずたにされた日本の社会を再建することを最大の使命とするはずである。この点について、小沢代表は現実的発想を持っている。昨年秋の大連立騒動の時には、私も小沢代表の政治感覚を疑った。しかし、その後は改心し、民主党を軸とする政権交代の実現に政治生命をかけている。「生活第一」という民主党の政策は、社会民主主義の方向である。
今の日本の政治にとって何よりも重要なことは、政権交代を起こすことである。自民党が常に権力を握っていることが自明の前提であったことこそ、日本社会の様々な面をおかしくした。メディアが萎縮して批判性を失ったのも、自民党が常に権力を持っていたからである。警察が平和運動や労働運動に対して抑圧的なのも、自民党に逆らう運動を弾圧してもかまわないと彼らが思っているからである。本来独立して行政権力に対する監視機能を持っているはずの裁判所までが政治的な問題について及び腰であることも、自民党永久政権のせいである。一党支配が社会を息苦しくするという法則は、北朝鮮のみならず、程度の差はあれ日本にも当てはまる。
どの党が政権を取るかわからないという状態が当たり前になれば、メディアも警察も司法も、もう少し自立性を取り戻せる。官僚組織というのは政治のトップの顔色を伺うものである。ともかくトップを入れ替えることは、それ自体で意味を持つ。
私は理想主義者であり、進歩主義者である。しかし、カール・ポパーという哲学者が『歴史主義の貧困』という書物の中で言ったとおり、世の中は漸次的にしか変わらないと思っている。漸次的に理想を実現する作業こそが政治である。
二〇〇五年春にしばらくイギリスに滞在した折、ちょうど総選挙を見ることができた。当時、イラク戦争を引き起こしたトニー・ブレアの人気はどん底であった。しかし、左派、進歩派の知識人は保守党に政権を渡してはならないと苦渋の論陣を張っていた。『ガーディアン』紙のコラムニスト、ポリー・トインビーは、「鼻をつまんで労働党に入れよう。鼻をつまむための洗濯ばさみを無料で進呈する」と書いていた。私も、小選挙区に関する限り、鼻をつまんで民主党に投票しようと訴えたい。
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