1 政治と経済の複合危機
二〇〇八年九月は、日本では福田康夫首相の退陣表明とともに始まり、世界的な経済の動乱が襲った。住宅バブルの崩壊に端を発するアメリカの金融不安は、大手証券会社の破綻や身売りにまで発展した。世界中に衝撃が駆け巡り、各国政府、中央銀行は対策に大童であった。しかし、今回の証券会社の破綻は、混乱の第一幕でしかないのであろう。金子勝氏が再三指摘したように、サブプライム問題から始まる不良債権の構図はあまりにも大規模かつ複雑で、その全体像が容易に見えず、政府も市場も底を打ったという感覚ももてないでいる。
福田首相は、自分の後継者を選ぶ総裁選挙を華々しく行い、国民の耳目を集めて、劣勢を挽回しようと考えていた。小泉劇場の夢よ、もう一度というわけである。しかし、その目論見は外れてしまった。各国の首脳が必死で経済対策を考えているときに、総裁候補は各地を巡業し、抽象的な持論を繰り返すだけであった。大型台風襲来で大嵐が吹き荒れている中で、自民党一座は能天気に季節はずれの盆踊りを踊っていたようなものである。国民もメディアも、ショーを面白がるよりも、呆れ果てて冷ややかな視線を送っていた。
アメリカ発の金融危機が二〇〇八年のアメリカ大統領選挙と日本の総選挙に重なったことの意味は極めて大きい。この事態は、世界政治の大きな循環が次の段階に入ったことを告げているように思えるのである。
第二次世界大戦後の先進国の政治には、30年程度の大きな周期がある。戦争終了後、一九七〇年代までは世界的な経済の拡大期で、完全雇用の達成が政策目標となり、福祉国家の整備が行われた。言わば、第一の循環はケインズ主義と大きな政府の時代であった。そして、二大政党制の国でも、政党間の政策的な差異が縮小した。国民生活の向上のために政府が社会保障や雇用政策を積極的に展開することが、統治の自明のモデルとなった。
戦後の福祉国家体制が成立して三十年ほど経過した一九七〇年代の後半、この体制は大きく動揺した。石油危機による経済成長の鈍化、インフレの進行など、福祉国家を支えた経済的条件が崩れた。他方、国民各層を受益者に組み込んだ民主政治の仕組みは、「痛み」をともなう政策を決定することができず、政策決定システムは機能不全に陥った。一九七九年のイギリスにおけるサッチャー政権の登場、一九八〇年のアメリカ大統領選挙におけるロナルド・レーガンの当選が、次の時代の幕開けとなった。第二の循環は、小さな政府の時代であり、再分配よりも生産、平等よりも自由競争が重視された。利益の追求の奨励、富の集中の正当化、国民一般に対する政策的サービスの縮小などがこの時代の政策の基調となった。こうした政策を支えた理念が、新自由主義であった。新自由主義では政府が社会経済の問題を解決するのではなく、政府自体が問題の原因だと捉えられていた。
新自由主義の政策は、石油危機以後のスタグフレーション(不況とインフレの同時進行)を克服する上で有効であったとされる。しかし、同時に様々な弊害ももたらした。経済成長が回復しても、富は上層に偏在し、不平等と貧困が深刻化した。また、小さな政府路線のもとで教育や医療などの公共サービスが劣化したことも、国民一般には大きな被害をもたらした。そこで、九〇年代にはアメリカにおけるクリントン政権の登場、西ヨーロッパにおける中道左派政権(イギリスのブレア政権、ドイツのシュレーダー政権)の登場など、新自由主義路線を修正する動きも起こった。イギリスにおける雇用政策のように、それらの政権の実験には注目、評価すべき点もあるが、時代を転換するまでには至らなかった。ブレア、シュレーダー、両元首相は、退任後コンサルタントして、グローバル経済の中に身を投じ、大きな富を手にしている。そして、アメリカもイギリスも、金融危機の発信地となった。
二〇〇八年九月の世界金融危機は、過去三十年続いた新自由主義の時代が、もはや持続不可能であることを教える事件である。利益追求の奨励と富の集中を正当化してきた果てに、サブプライムローン関連商品に現れたように投機の自己増殖が進んだ。他方、不平等と貧困が拡大する中で低所得者のローン返済が滞り、不良債権の山ができた。この三十年の金融資本主義と浮利の追求の行き着く先が今回の危機である。もはや、市場、利益追求、競争主義など一連の政策理念は、社会経済の問題解決の手段ではなく、それ自体が問題の原因となっている。およそ三十年の周期を経て、世界の政治は次の段階に入ろうとしているのであろう。これから戦われる日米の選挙は、一九八〇年、あるいは大恐慌さなかの一九三二年の大統領選挙に匹敵する重要性を持っている。もちろん、今度の選挙では新自由主義を転換するというベクトルが基調となるべきことは、言うまでもない。
2 自民党政治の終わり 大きすぎた小泉の負の遺産
日本の場合、一九五五年以来ほぼ一貫して自民党による政権の独占が続いた。したがって、政権交代によって政策の基調が転換するという経験を日本人は持ってこなかった。日本にも政策基調の循環は存在したが、それは自民党が権力を維持するための適応や、各省官僚組織の権力拡張の作用の結果、生じたものである。高度経済成長により富が蓄積されれば、福祉国家が整備され、石油危機以降の低成長時代においては、民営化や規制緩和などの小さな政府路線が採用された。
しかし、一党優位制と官僚支配体制の結合物である日本の政府が政策転換を図っても、そこには大きな限界が存在した。政府による国民に対する利益還元は、一党優位のもとでは自民党の党利追求の手段となる。したがって、日本では年金や生活保護などの制度的、普遍的な社会保障の比重が西欧よりも低く、公共事業に代表されるような政治家が介在する恩恵的な利益配分が、事実上の再分配の機能を果たしてきた。また、官僚組織の省益追求が国民への利益還元の役割を代行したことから、補助金や公共事業などの政策が脈絡なく展開され、全体として政策の効率を大きく損なうこととなった。また、一九八〇年代の小さな政府の局面でも、限界が生じた。自民党も官僚組織も、それぞれ利権を抱えており、根本的に小さな政府になることは不可能であった。したがって、社会保障や地方財政に関して小さな政府路線をとりながら、官僚や族議員の既得権は温存された。
こうした意味での自民党政治の限界は、一九九〇年代に既に明らかになっていた。バブル崩壊以後の経済政策と不良債権処理、少子化時代の社会保障制度の再構築、冷戦以後の世界戦略など、それ以前には存在しなかった政策課題がこの時代に一気に登場し、政治家と官僚は対応を迫られた。確かに、これらに対する問題意識が政治家や官僚になかったわけではない。選挙制度改革、中央省庁再編、地方分権など、九〇年代には大きな制度変更が行われた。しかし、肝心の政党システムが一党優位体制のままであり、一時的な政権交代の経験により、自民党は一層政権にしがみつくという性癖を強めた。それ故、政策転換を引き起こす政治的なエネルギーが不在であった。
九〇年代には、政党再編成の試みも繰り返された。しかし、離合集散は野党の側で起こるだけで、なかなか自民党に対抗するオポジション(対抗政党)は形成されなかった。本来ならば、森政権の時代に自民党の命脈は尽きていたのだが、野党の弱体性のために自民党は延命した。そして、小泉という人気者を担ぎ出すことによって、一時的には勢力を盛り返したかのように見えた。
しかし、小泉人気の源泉は旧来の自民党政治を否定することにあった。五年あまりの小泉政権の時代に、自民党は本当にぶっ壊れてしまった。自民党は、政策面でも、政党の組織面でも、破壊された。
小泉政権の進めた構造改革が、自民党のみならず日本社会に与えた破滅的な影響は、ここで改めて指摘するまでもない。小泉政治は、政府による再分配機能を否定した時に何が起こるかという社会実験であった。構造改革の名の下に、社会保障の削減、地方に対する財政支出の削減が次々と行われた。また、労働分野の規制緩和によって低賃金労働が広がり、貧困が社会問題となった。農民、地方の中小企業、建設業など自民党の支持基盤は衰弱している。この傾向は二〇〇七年の参議院選挙でも明らかになった。
また、小泉という特異な看板を掛けることよって選挙で大勝したという経験が、自民党をきわめて脆弱な政党にした。人気者をリーダーにいただき、改革という空虚なスローガンを叫ぶことによって選挙に楽勝するという経験をすれば、日本が直面する政策課題を見据え、政策を訴えることによって国民の支持を獲得するという正攻法がばからしいものに見える。自民党全体が、投機による儲けの味を覚え、政党としての地道な手法を忘れたのである。小泉は自民党にとっての覚醒剤であり、これを注入している間は元気を回復したような錯覚に陥るが、体はぼろぼろになる。小泉退陣後も、自民党は、薬物中毒患者の如く、あてどもないリーダー捜しを続けた。最初はナショナリズムの旗手、安倍晋三に頼り、次は癒し系の福田康夫を担ぎ出した。しかし、両者共に、指導者となるにはあまりにもひ弱な政治家であり、一年で首相の地位を投げ出す結果になった。
福田は、自らの人気の欠如を認識し、選挙までに体勢を立て直すために退陣した。国政上の失策があるので首相を辞任するなら、それは首相としての行動である。しかし、自民党の選挙戦略のために辞めるのは自民党総裁としての行動である。佐藤優が的確に指摘したように、福田は自民党本部で退陣表明をすべきであった。自民党と政府の区別についてけじめがない。自民党は常に政府を支配することが自明の前提になっているという点で、彼らの発想は五五年体制の時代から変わっていない。統治能力を失っても、自分たちを唯一の政権党と考えるところに、今の自民党の混迷の原因がある。
安倍の時といい、今回といい、新総裁は圧倒的な支持を得て選出された。しかし、その人気は空虚なものである。二年前には安倍を選んだ政治家が、昨年は福田を選び、今回は麻生を選んだ。人格識見に優れたリーダーを押し上げるのではなく、その時々に人気のあると思われる政治家の周りに群がるのが、今の自民党の多数派である。
今回の総裁選挙が盛り上がらなかったことの理由は明白である。福田は退陣の理由として、政策を実現するために新しい体制が必要だと言った。しかし、どのような政策を実現するのかは白紙で、総裁選挙で改めて議論されることとなった。その無責任さに国民は呆れたのである。そして、総裁選挙の空騒ぎに加わった政治家は、自民党の危機さえ十分認識できていない。一党支配の末路は、惨めなものである
3 日米同時選挙の課題
日本では一〇月から一一月の間に総選挙が行われることが確定的となった。そこでの最大の争点は、このように無責任な自民党に政権を預け続けるかどうか、自民党を罰するかどうかである。現在の日本においては、政権交代を起こすことはそれ自体目的である。しかし、政権交代によって政策を転換するという展望が見えなければ、野党への投票が単なる欲求不満の表現に終わってしまう。それでは、二〇〇五年の小泉自民党へのなだれを単に逆方向にしたということに過ぎない。
最初に述べたように、世界的な金融危機の中で日米同時に選挙が行われることの意味は大きい。そして、およそ三十年続いた新自由主義の時代からの転換こそが、これらの選挙の課題である。金融危機の衝撃もあって、日本でも、アメリカでも世論の変化は起こり始めている。
この点に関連して、マーク・メルマンというアメリカの世論調査専門家が、興味深いデータを示している。過去二五年のアメリカ政治においては、次の三つの争点が政治論議の中心であったと彼は言う。第一は、政府の役割がどうあるべきか。第二は、道徳的な絶対主義か相対主義か。第三は、軍事力による単独主義的な国益追求か、外交による多極主義的なアプローチを取るか。いうまでもなく、ブッシュ政治は小さな政府、道徳的絶対主義、単独主義と軍事力依存の組み合わせであった。しかし、最近国民の意識が変化しているとメルマンは指摘する。今年の調査では、六〇%の国民が、連邦政府は普通の国民が直面している問題を解決するために十分働いていないと感じている。今まで小さな政府を支持してきた国民が、政府の積極的な役割を求めているのである。また、道徳的な相対主義を選ぶものが多数になり、単独主義と多極主義はほぼ拮抗するようになった。アメリカ政治が依拠してきた価値観が急速に変わっている。政治家は国民に変化を受け入れるよう訴えるが国民が先に変化していると彼は述べている(Mark Mellman, Another Country, International Herald Tribune, September 18, 2008)。
私自身、昨年暮れに世論調査を行って、その分析を宮本太郎とともに本誌三月号に発表した。その要点は、日本の国民は小泉政権以来の構造改革に対して否定的な評価を下していること、将来の生活について悲観的な見通しを持っていること、目指すべき社会経済モデルとしては北欧型の福祉社会を望んでいることであった。そして、政党支持と将来展望や重要な政策課題の選択には相関があり、自民党支持者は相対的に将来を楽観しており、民主党支持者は不安を持ち、より強く福祉社会を望んでいることが明らかになった。いわば政党よりも先に有権者のほうが二大政党政治に向けた態勢を整えている。(山口、宮本、「日本人はどのような社会経済システムを望んでいるか」、『世界』二〇〇八年三月号)。
メルマンがアメリカ世論について指摘したことと、我々が日本の世論について発見したことは重なり合う。日本はアメリカほどひどい格差社会ではないが、ヨーロッパに比べれば福祉国家の解体が進んだ。いわば日米は二一世紀に入って、新自由主義路線の先頭とその次を走ってきた。だからこそ、その弊害についても人々は気づき、別の社会経済モデルを求めるようになった。
政策転換を求める世論が高まったことは、政治の刷新の必要条件が満たされつつあることを意味している。問題は、政党、政治家がそのような世論に応える具体的な政策を提示し、実行できるかどうかである。実は、いささかレベルは異なるとはいえ、そのような世論の転換は自民党の中でも起こった。今回の総裁選挙で、景気対策を唱える麻生が圧勝し、改革継承を唱える小池百合子や石原伸晃が票を伸ばせなかったことは、自民党の議員および地方の支持者が、構造改革に辟易していることを示している。近日中に予想される総選挙において、景気対策を打ち出す麻生自民党と、生活第一を唱える小沢民主党が対決するということになれば、政策的な対立軸はぼやけてしまうだろう。実際、アメリカでは金融危機に直面して、政府による住宅金融会社や保険会社の救済が行われ、経営危機に陥っているゼネラルモーターズやフォードに対する政府による救済さえ検討されている。共和党陣営も含めて小さな政府など過去の話という雰囲気である。しかし、新自由主義を批判してきた者にとって、これは決して喜べる事態ではない。
従来の景気刺激策に対する反省もなしに、漫然と政府支出を増加させたとしても、国民の不安を解消することも、社会経済を立て直すこともできない。効果のない景気対策をすれば、必ず小さな政府派の巻き返しが起こるであろう。スローガンで違いが出ないということは、より踏み込んだ政策構想について違いを示す必要が出てくることを意味する。
今は、第二のニューディールが必要とされている。今は、よりグローバルなニューディールが求められている。新しいエネルギーの開発、食糧増産、森林の保全と拡大など、世界レベルでの政策課題が人類の未来に立ちはだかっている。これらの課題の解決は、すぐには利益をもたらすものではない以上、市場ではなく、政府がイニシアティブを取らなければならない。このような危機的な状況で選挙を戦えるということは、政治家にとっては歴史に名を残すチャンスを得たということでもある。
選挙における最大の政策的対立は、この点に関連する。即ち、政府による積極的な政策が当面の緊急避難なのか、社会システムを組み換える第一歩なのかが問われるべきである。自民党の政策は、麻生が言うとおり、不景気だから今をとりあえずしのごうというものである。小泉構造改革に対する総括も反省もなく、ただ政府支出を増やすと言うだけである以上、仮に景気が上向けば、その後は小さな政府路線に戻るのであろうか。まさに、景気対策は痛み止めに過ぎない。
民主党の生活第一を具体化する政策については、既に多くの経済学者や社会保障研究者が提言を行っているので、ここでは各論には踏み込まない。何よりも必要なのは、理念である。民主党が目指すべき社会は、人間の尊厳が守られる社会である。具体的には、非正規労働者に対しても公平な社会保障サービスを提供すること、親の経済状況によって子どもの人生の機会が狭められることのないようにすること、全国どこでも医療や教育などの公共サービスを確保することなどが、柱となるべきである。そして、経済効率一辺倒の政策によって破壊された社会的連帯を回復することこそ民主党の政策の根本理念となるべきである。
また、政策手法についても、従来の失敗を直視し、官僚依存の方法を改める必要がある。各省の官僚に指示して事業の案を挙げさせ、これに少しずつ予算を付けるというのでは、結局官僚の権益を増やすだけである。今必要なことは、医療、介護、生活保護、地方財政など、制度的な現金給付、現物給付の仕組みを強化し、国民が安心感を持てるようにすることである。したがって、官僚の新規なアイディアに頼るのではなく、劣化した既存の再分配の仕組みに財政資金を投入することこそ、急務である。
にわか「大きな政府」論者の真贋を見分けることは、アメリカでも選挙の重要な争点である。ニューヨークタイムズのコラムニスト、トーマス・フリードマンは、候補者が自分の支持基盤に対して、支持者の聞きたがらない直言ができるかどうかが鍵であると述べている。マケインであれば、富裕層に対する減税をやめると言えるかどうか、オバマであれば、自動車メーカーと労働組合に対して高燃費の自動車を開発するなど未来につながる努力をしなければ救済策は取れないと言えるかどうかが問われると彼は言う(Thomas Friedman, Are you still laughing?, International Herald Tribune, September 22, 2008)。政府の政策の公平さを確保するためには、リーダーが単に自分の支持基盤の悲鳴に応えて救いの手を差し伸べるだけではだめだというのがフリードマンの主張である。確かに、政治家は敵をたたくことは好むが、味方、支持者に対して苦い薬を飲むことを勧めるのは好まない。その結果、政治家は特殊利益の代理人だという不信感が高まることとなる。
これを日本に置き換えるとどうなるだろう。小泉は、巧妙に抵抗勢力を設定し、これを攻撃することであたかも全体の利益を追求しているかのような印象を与えた。しかし、実際には規制緩和によって経済界の利益を実現しただけである。したがって、麻生が本物の経済対策を打ち出したいならば、企業に対してサービス残業や名ばかり管理職をやめろと言えるかどうか、景気が回復しても法人税収が増えなかったことを踏まえ、儲かった企業に税金を払えと言えるかどうか、非正規労働者を使い捨てにするなといえるかどうかが試金石となるであろう。
民主党の場合、小さな政府で痛めつけられた人々を救済するというメッセージを、ワーキングプアや非正規労働者など、最も困難な状況にある人々に伝えるためには、貧富の格差という巨大な不平等を是正するだけではなく、社会に存在する小さな不平等も見逃さないという姿勢を示す必要がある。したがって、小沢であれば、労働組合に対して非正規労働者もメンバーに入れて均等待遇のために闘えと言えるかどうか、公務員に対して行政需要の変化に対応するために省を越えた配置転換を受け入れるようにいえるかどうかが試金石となるであろう。さらに、財源の問題についても、将来に向けて議論を開始することを今から打ち出しておくべきである。
新自由主義に対する反省の雰囲気が強まっている今、それを単なる自民党の利益配分政治の復活につなげさせないために、野党の側から政策論争を仕掛けていく必要があるのである。
結び 次なる政治システムをどう構想するか
政界の消息通の間では、麻生新首相の誕生によっても自民党のイメージは好転せず、今度の総選挙では自民党は大敗し、民主党政権が誕生するという見方が多数派である。ともかく一度政権交代を起こそう、民主党に政権を任せてみようというのが国民世論なのかもしれない。
今まで私は、新自由主義の自民党を右側に、福祉国家の民主党を左側に置く二大政党制の成立を構想してきた。しかし、自民党総裁選挙で明らかになったように、日本の保守政党の中には、新自由主義に対する拒否反応も強いようである。だとするとそれほど明確な対立構図は当面できないことになる。
所詮、自民党は機会主義の政党である。没落しつつある自民党との対決を演出することに関心を向けるよりも、民主党は自らの未来構想を具体化かすることに専念したほうがよい。自民党が下野すれば、政党再編も起こるのであろう。それにしても、新自由主義に対抗する左側の軸を立てなければ、有意義な政党再編も起こらない。この経済危機状況の中で、民主党の生活第一の真価が問われている。
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