定額給付金をめぐる騒動のさなか、実務を任された市町村の不満に対し、麻生首相は、市町村に自由に支給基準を決めてもらうのが地方分権だと述べた。もとより面倒な細目を地方に責任転嫁するというのは、地方分権とは言えず、結局総務省原案では所得制限は設けないことが基本となった。せっかく総理が地方分権を重視しているようだから、この際、より地方分権を推し進め、地域経済の活性化にも役立つための提案をしてみたい。
このところの景気の悪化に対して、麻生政権が小泉政治以来の「小さな政府」路線を転換し、積極的に財政支出を行うことを決断したことは、的確な政策判断である。ただ、どうせ金を使うなら、より意義のある使い方をすべきである。個人に現金を渡して懐を暖めるという政策も一つの手段かも知れないが、各種世論調査が示す通り、当の国民の多くは一万二千円の小遣いを有り難いと思っていない。
量が質に転化するという言葉は、政策の世界にこそ当てはまる。一億二千万人あまりに一万二千円ずつ配れば、各人がちょっと消費し、かなりの額が貯蓄に回るだろう。しかし、国全体で二兆円となると、話は違う。後々まで効果が残るような使い道に生かすことができる。個人にとっては小さな金でも、国全体で大きくプールし、それを個人では買えない公共的財産を購入するために使うことこそ、政治という作業の本質である。各人に現金を配るというのは、政治の怠慢でしかない。
今回、国には金を使う知恵がないと政府与党が自分で言っているのだから、地方で知恵を出せばよい。給付金の財源を国の言うように個人に広く薄く配分するのか、各自治体で市民の要望に応じて他の緊要の政策に使うのか、自由に決められるようにすべきである。まさに、政策の目標を住民自らで設定することこそ、地方分権の本質である。たとえば、私の住む札幌市では給付金の財源はざっと二三〇億円である。これだけの金があれば、市民の生活不安を解消するためにいろいろなことができる。医療介護の基盤整備、教育、環境など将来のための投資のアイディアが市民から提案されるに違いない。市民が真に現金給付を望むのなら、それでもよい。
給付金予算の執行は新年度からとし、これから年度末までに首長、議会、住民による議論を進め、使い道を決めるべきである。住民参加も本気度が違ってくるであろう。この議論の場こそ、首長や議員の腕の見せ所である。いろいろな自治体が建設的な知恵を競い、政策のイノベーションも促されるだろう。
この発想は二十年前の竹下政権によるふるさと創生事業に似ているように見えるが、中身は異なる。二十年前の場合、バブルのさなかに全市町村に一億円という中途半端な金を配り、当時はもらう側も知恵がなかった。今はセーフティネットが綻び、市民の不安が高まっている。生活を支える政策的基盤を整備することへの需要はきわめて大きい。
また、この数年政策論議と言えば予算を減らすことばかりで夢も希望もなかった。今回、自分たちの議論によってわがまちの公共的財産を作り出すという経験をすれば、住民も政治参加の意味を体感でき、草の根からの民主政治の活性化につながるに違いない。
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