十一月中旬、北海道北部の浜頓別という町に講演をしに行った。音威子府という駅で降り、車で向かったのだが、途中の小頓別という集落に郵便局があった。案内の人に聞くと、この集落にとってこの郵便局はまさに命綱ですとのことだった。確かに、信用金庫はおろか農協の支所さえないこの集落にとって、郵便局は唯一の公共機関であり、外界との接点である。民営化に伴い採算性が厳しく問われるようになると、いつまでこの郵便局が持つのか、地元の人は不安におののいているそうである。
この光景に、私は日本社会の歪みの象徴を見出す思いである。効率一辺倒と自己責任原則で、経済社会は「改革」された。東京でこの種の改革を論じる人にとって、わざわざ辺鄙な過疎地に住み、公共事業や政府からのサービスに頼って生きる人々は、邪魔物にしか見えないのだろう。しかし、国土の維持に効率原理を持ち込むなど、愚の骨頂である。生まれ育った地域を必死で守り、後世に伝えようとする人々の気持ちを踏みにじることは、誰にもできないはずである。
最近、景気の悪化による首切りが社会問題となっている。非正規労働者を解雇し、路上に追いやることも、過疎地の郵便局を廃止することも、根は同じである。強い者の金儲けを何よりも優先させることを改革と呼んできた、この大いなる錯覚から、私たちは目覚めなければならない。
人間が人間らしく生きるための社会的基盤を整え、維持することこそ、政府の役割である。郵政民営化を問うと称して行われた空騒ぎとも言うべき選挙から三年以上経ち、政治は迷走を続けている。次の選挙の結果がどうなるかよりも、もっと大事なことを政治は思い出さなければならない。人間を粗末に扱う政策を改革と呼んではならない。小頓別の郵便局をきちんと守ることから、構造改革の見直しを始めるべきである。
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