通常国会での予算審議が本格化し、政策論争に関していくつか興味深い論点が浮かび上がっている。私自身の関心に引き寄せて言えば、小泉時代の構造改革の虚妄がようやく国会論議のテーマになり、与野党を問わず、反省、見直しの機運が高まっているということになる。
もっともスキャンダラスな事例としては、かつての簡易保険関係の保養施設等の売却問題がある。いったんはオリックスグループが一括して買い取ることに決まったが、入札の手続きに疑問があったことや価格があまりにも低すぎるのではないかという批判が出てきたことから、鳩山邦夫総務相が待ったをかけた。国民の資産なのだから、売却の凍結は当然の措置であろう。
この一件には、小泉構造改革の胡散臭さが象徴されているように思える。オリックスグループの総帥、宮内義彦氏は、規制改革会議の議長として、小泉構造改革の司令塔の一角を担った人物である。規制改革と郵政民営化は関係ないなどと弁明しているようだが、屁理屈という言葉がこれ以上ぴったり当てはまるケースはない。「官から民へ」というスローガンをふりまき、政府が行うことはすべて悪で、民間はすべて善という単純な世論を作ったことについて、宮内の功績は大である。その宮内の会社が、民営化に伴って放出される簡易保険の資産を安値で買収するというのだから、語るに落ちる話である。
民営化は、Privatizationの訳語である。この言葉を民営化と訳したのは誤りだったように思える。むしろ、単刀直入に私物化と言った方が、事の本質がよく分かる。民営化には必ず私物化が付きまとう。国民の財産だったものを私物化し、金儲けを図ろうという発想は、明治以来政商と言われる連中に共通したものである。小泉構造改革も、民営化や規制緩和を利権の種にしたい政商の暗躍を許す結果になった。郵政民営化が高邁な改革ではなかったことを、一連の事件は教えている。
メディアの不明も明らかになった。朝日新聞は鳩山総務相が売却凍結を打ち出した直後、この方針を批判する社説を書いた。朝日の経済論説の水準が低下していたと私も思っていたが、ここまでひどいとは思わなかった。改革という言葉に踊らされ、国民を欺くお先棒を担いできたことについて、朝日新聞は猛省すべきである。
利権のみならず、民営化は非大都市圏の地域における金融、保険、郵便サービスの劣化を招き、ただでさえ疲弊している地方の足を引っ張る形になっている。「官から民へ」で地方が活性化するなどというのは嘘っぱちであることを、住民は理解している。三か月ほど前に、北海道北部の武部勤元幹事長の地元に行ってみたが、民営化や地方切り捨て策を推進されたことに対する地元民の怒りは、すさまじいものであった。
麻生太郎首相は、個人的に郵政民営化に反対だったと述べ、民営化を見直す方針を明らかにした。過ちを改めるに憚ることなかれとは言うものの、これは過去四年間の自民党政治を根本的に否定する発言である。二〇〇五年の総選挙を小泉純一郎首相は郵政民営化の賛否を問う国民投票と位置づけ、未曽有の大勝利をおさめた。そして、この選挙で獲得した議席をもとに、郵政民営化以外の、社会保障削減や教育政策の変更などを推し進めた。国民にとってはそれだけでも詐欺のようなものである。さらに、二〇〇五年選挙の争点であった郵政民営化に問題があったと現職首相が言い出すとしたら、国民は二重の意味でだまされたことになる。
首相が今頃になって、郵政民営化に疑問をさしはさむというのは、実に卑怯である。本当に民営化に反対なら、国民新党を結成した政治家のように、小泉と袂を分かつべきではなかったのか。経済状況が悪化して、構造改革の結果に対する国民の評価が否定的なものになったから、今頃になって実は反対だったなどと言い訳をするのは、見苦しさの極みである。民営化が間違っていたというなら、民営化というトリックを使った選挙でできた現在の与党勢力は虚構ということになるはずであり、首相は即刻衆議院を解散して、改めて民意を問う以外に、取るべき道はないはずである。
形の上で、二大政党制ができ、政権交代の可能性も高まってきた。政党政治の改革はそれなりに効果を現したことになる。しかし、政治の最高指導者がこのように能天気な言動をして、恬として恥じない状況を見ると、国民に対する責任を全うする政党政治はまだ遠いもののように思える。
次の総選挙で政権交代が起こるかどうかに、みんなが躍起になるのは当然である。しかし、その種の勝敗予想に血道を上げれば上げるほど、政党政治は国民から見放されることとなる。もし、郵政民営化や規制緩和や社会保障費抑制が誤っていたならば、それは具体的にどのような社会経済の病理を作り出しているのか。ほんの四,五年前、今日の惨状を予想できず、誤った政策を決定したのは誰で、それはなぜだったのか。この惨状から日本人を救うためには、政策のどこを改めるべきなのか。このような基本的な議論こそ、総選挙前夜の国会にふさわしい。
構造改革の評価が政府与党の中でさえ逆転し始めたことの最大の教訓は、単純なスローガンによる善玉と悪玉の色分けや、そうした単純な政治ドラマからは、何も生まれないということである。改革という言葉は、自民党の政治家にとって延命のための便利な道具にすぎなかった。小泉政治の負の遺産から決別するために、これから総選挙まで、与野党は安易なスローガンに頼らず、政策の中身を具体的に論じるべきである。
|