小沢一郎民主党代表の公設秘書がで逮捕、起訴された事件は、日本の政党政治が国家統治の中での従属変数でしかないことを改めて示した。検察という官僚組織が政治的に中立でないことは、今までの政治家に絡む事件を見れば明らかであった。今回、検察は総選挙直前というタイミングでその政治性を発揮した。民主政治を支えるはずの世論も、検察とメディアの手にかかれば簡単に変えられる。
半世紀以上も日本を統治してきた自民党政権が、まさに落城寸前なのだから、旧来の体制に安住してきた人々は大変な危機感を抱いているに違いない。政権交代がまさに権力の奪い合いであるという政治の現実を思い出させてくれたことは、この事件の第一の教訓である。政権交代を起こそうとする民主党に対して、この種の邪魔が入ることは考えてみれば当然である。それにへこたれているようでは、政党として未熟である。
また、政権交代に対する期待水準を引き下げてくれたことに、今回の事件の第二の意義がある。自民党の腐敗、堕落ぶりは国民の忍耐の限度を超えている。しかし、これに取って代わると自称する民主党も、清新な救世主ではなさそうだ。自民党から民主党に政権交代しても、世の中が劇的によくなるわけではないだろう。小沢代表の資金疑惑は、民主党に対する根拠のない期待を打ち砕いた。国民はそうした冷めた気分で今回の事件を眺めているであろう。
実は、そのことは有意義な政権交代のためには必要なことである。根拠のない期待が膨らんだ状態で政権をとっても、民主党は国民を満足させることはできないだろう。国民の期待はすぐ幻滅に転化し、安定した政権が課題に取り組むという体制はできないであろう。政治家や政党を選ぶのはよりましなものを見分ける作業であり、真に必要な政策を徐々に実現することこそ社会変革の王道だという感覚を持つことこそ、政権交代可能な政党政治を支える国民の気構えというものである。小泉純一郎という人気者の「構造改革」という大言壮語に熱狂した挙句に、社会保障と雇用の崩壊に直面している日本人にとって、このことは特に重要である。
もちろん、よりましな選択という現実主義を説くことは、民主党に対して小沢代表と麻生太郎首相との不人気競争というレースを続けろという主張を意味するのではない。自民党と民主党がもたれあったまま、政策的成果を上げることもなくいたずらに時間を過ごすという奇妙な均衡状態を打破するためには、まず挑戦者である民主党の側から動きを起こすしかない。
現下の経済危機を打開するために政府がなすべきことは明白である。たとえば、親の経済的事情によって進学を断念する若者をゼロにするなど、具体的な政策は有識者の意見を拝聴しなくてもすぐに実行できる。民主党に何よりも必要なことは、政府の無為無策を批判し、戦闘体制を構築することである。そのためには、やせ我慢でいいから企業団体献金の禁止に踏み出すことと、政権交代によって実現する社会保障や雇用の再建策を具体化することが急務である。
代表交代というカードを戦略的に使うことも必要である。小沢が党首である限り、政府与党を攻撃する破壊力は持ちえない。そう遠くない時期に新たなリーダーを立て、政府与党を攻撃するための資格と正統性を回復することが不可欠である。
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