三月と言えば、卒業、進学、就職の時期で、別れと出会いが交錯する感傷的な時期のはずである。しかし、卒業式で「若者が希望を胸に抱いて巣立つと」いう決まり文句が使われたのは、昔話になりつつある。近年の貧困と不平等の拡大が、若者にとって悲惨な春をもたらしている。
三月二四日の「北海道新聞」は、親の経済的事情によって大学進学を断念せざるを得なかった高校卒業生が、北海道だけで今年六〇〇人も発生したと報じている。全国の数はその数十倍であろう。おそらく一万人以上の若者が、家庭の貧しさゆえに高等教育を受けることができないまま、社会に放り出されたことになる。また、学費が払えず高校を中退する若者も多い。それは、当人たちに気の毒なだけでなく、社会全体の損失である。
大学で教えている者にとっては、実に切ない話である。意欲と能力を持つ若者から教育の機会を奪うということは、社会の側の犯罪である。そのようにして将来への夢を奪われた若者が社会に復讐しても、我々は文句を言えないと思う。現に、そうした復讐のような事件が時折起こっている。私たちのような大人は、若者に対してどのような社会を残すか、もっとまじめに考えなければならない。
先進国の中で、高校レベルの教育が有償なのは日本くらいである。また、大学の学費も、アメリカは論外に高いが、日本はヨーロッパに比べて遥かに高い。子どもを大都市の大学に通わせるためには、親はかなりの収入を得るか、大きな借金をしなければならない。
格差社会をめぐる論争がさかんである。その中で、しばしば結果の平等と機会の平等が対比される。新自由主義路線をすすめてきた学者やエコノミストは、機会の平等さえあれば、結果の平等がなくてもかまわないと主張する。しかし、それはまったくの誤りである。確かに、誰でも大学入試の願書を出せるという意味での機会の平等は今の日本にも存在する。だが、家庭の経済的事情で進学をあきらめる若者が多数発生するということは、機会の平等が崩れているということである。
実質的に機会の平等を確保するためには、ある程度の結果の均等化、富める者から貧しい者への再分配が不可欠なのである。進学の例でいえば、親が失業した場合、学費や一定の生活費をすべて政府が肩代わりするという仕組みがあれば、機会の平等が確保される。そのような政策は、ある程度結果を平等にする機能を持つ。
政治家は、このような不憫な若者を見て、心が痛まないのだろうか。政府がなすべき経済対策は明白である。親が貧乏なために人生の機会を失う若者をゼロにすることなど、緊急対策の一例である。そのための予算など、あの定額給付金に比べれば、ほんのわずかである。開店休業状態の国会を見て、議員の皆さんにあなた方の仕事は何なのか分かっているのかと言いたくなる。
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