このところ、一九九〇年代の中頃に政治改革や行政改革を推進した世論が、二一世紀に入って急に新自由主義的構造改革を後押しするようになったのはなぜかという問いを、考えている。もちろん、小泉元首相など、政治家の力量に負うところもあるし、メディアの報道の仕方にも影響された。しかし、もっと大きな問題は、日本の民主政治の根の浅さに帰着するのではないかと考えるようになった。
昨年八月、月刊誌『論座』の最終号で、柄谷行人、中島岳志の両氏と座談会を行った。その中で柄谷氏は、民主政治は議会の中だけではなく、アソシエーション(自発的な結社)が活発に動くことが必要条件となることを力説した。また、アソシエーションの存在が、国家権力が社会を一色に塗り上げることを防ぐ防壁になることも強調していた。
この話は、丸山真男以来日本の近代主義的な政治学者が以前から述べていたことである。ただ、これまで一応社会に根を下ろし、それなりの役割を果たしてきた、労働組合、農協、医師会、建設業界、特定郵便局長会などの団体が近年とみに衰弱し、防壁とならなくなったことに柄谷氏は強い危機感を覚えていたから、あえて発言した。
実は、九〇年代以降の政治改革、行政改革の中で、それらの団体が政党や政治家の有力な支援者となり、自らに有利な政策を作り出し、それが既得権となったことに対して、批判の議論が高まっていた。それらは職能団体であり、政党と結びつくことによって、生産、供給側の利益を擁護する補助金、規制の政策を引き出してきた。それが、利権政治、官僚の天下りなどの不公正をもたらすとともに、納税者、消費者に余分な負担を強いていたというのが、そうした批判の要点であった。まさに、政党とつるんだ利益団体が政治をゆがめる悪者として描かれていたのである。
これを改革するためのスローガンが、生活者あるいは消費者重視の政治であった。そして、小泉政治こそ、そのような時流を捉え、規制緩和、民営化、歳出削減などの政策転換を実現した。しかし、その結果何が起こったのか。まさに生活者の生活がよって立っていたはずの各種のサービスの供給体制が崩れ、かえって生活破壊の政治が実現したと言っても過言ではない。流通業の規制緩和は、中心市街地のゴーストタウン化をもたらし、自動車を持たない人の買い物の自由を奪った。医療予算の削減は、医師の疲弊と地方における医師不足をもたらし、医療難民を生んでいる。
消費者中心というスローガンを一面的に捉え、何でも安ければよいという基準で政策を転換したらどうなるか。こと、労働については、我々はみな労働力の供給者である。以前は、労働組合という団体の力で、労働力の供給についてカルテルを結び、企業による買い叩きを防いできた。しかし、消費者が安いものを望んでいるという命題を金科玉条にすると、労働力を消費する企業の側の要求がまかり通ることになる。さらに、消費者のニーズに応えるという名目のもと、労働の強化が進むことになる。
この状況を転換するためには、二つのことが必要だと思う。
第一は、生活における生産と消費のバランスを回復することである。生活とは、労働力を供給して賃金を得て、それをもとに消費することによって成り立っている。近年、生活の中で消費のみが強調されてきたきらいがある。所得低下の時代には、消費者が安いものを求めるのも当然ではある。しかし、そこに落とし穴がある。以前に読んだアメリカ社会に関する論文の中で、「貧乏だからウォルマート買い物をする。しかし、ウォルマートで買い物するから貧乏になる」という文章を見つけて、感心した。たしかに、ウォルマートは価格破壊の小売業の先駆者である。しかし、この会社は労組を認めておらず、従業員の中にはあまりの薄給ゆえに生活扶助をもらうものも多い。同社に商品を納入する側も買いたたかれ、ろくに利益を得られないにちがいない。企業が労働者に人間らしい生活を保障するためのコストが価格に転嫁されることを、社会全体で認めることが必要である。
第二は、生産、供給側の団体が、今一度奮起することである。柄谷氏の言うアソシエーションは、生産、供給の世界だけに限られるわけではない。生協などの運動も重要である。とはいえ、まったくの更地に新しく団体を立ち上げることは容易ではない。既存の団体はいわば社会的な資源である。
ただし、従来の政党と団体の関係には、政策的利益を求める我田引水の運動があったことは否定できない。ここで、旧来の団体がその社会的な役割をもう一度思い出し、政治との関係を作り直すことが求められている。こんなことは、私などが言わなくても、危機感を持った組織は既に実行し始めている。派遣切りに対処するための運動に対しては、連合などが取り組んでいる。私のいる北海道でも、学者、労組、社会運動などが連携して、反貧困ネットの北海道版を作ろうとしている。
こうした動きをさらに広げていくことは、単に貧困対策だけではなく、民主政治の基盤を強化することにつながる。なぜならば、人間がバラバラの原子になる時、無力で、移ろいやすい存在となる。そこにテレビやネットの言説が入り込み、怪しげな世論が形成される。それこそ、大衆を扇動するデマゴーグの思うつぼである。人間が何らかの団体に属し、直接複数の人間たちが話し合いをしながらものを考える時、思考停止への歯止めがかかる。規制緩和や民営化の政策が推進された時、人々が自らの働く場で、それらの政策の意味について議論し、考えることができていれば、少しは異なった展開がありえたのではないか。
今年はもうすぐ総選挙があり、政権交代の有無が最大の関心事となりつつある。もちろん、それは日本の政治にとって重要なことである。しかし、政治が議会の中だけにあると考えるなら、私たちの熱や期待はすぐに裏切られるだろう。社会の側で、多様な団体を作り出し、政治を考える拠点にすることで、徐々に日本の政党政治の根が深くなると考える。
|