一九九三年の細川連立政権の誕生からこの夏で一六年である。一六年といえば、ペリーが浦賀に来航してから明治維新まで、第二次世界大戦の敗北から六〇年安保までとほぼ同じ長さで、日本政治もずいぶん遠回りしたものである。今の学生と話してみると、非自民連立政権の誕生さえ歴史になっていることに、改めて自分の加齢を感じる。
束の間の政権交代からしっかり教訓をくみ取ったのは自民党の方で、他党を引き込みつつ、曲がりなりにもその時々の課題に応え、今日まで権力を維持してきた。民主党は生まれて十年以上になるが、日本政治の回り道は、民主党の回り道と重なる。
なぜこんなことになったのかといえば、二大政党がかみ合った対決の構図を作れてこなかったからである。自民党にとっては権力を維持することが至上の目的であり、政策は方便でしかない。その裏返しで、民主党は政権交代を叫ぶが、政権を取ることによってどのような日本社会を作り出すか具体的なイメージを語れない。現在の世論が政権交代を希求しているのも、もっぱら自民党の自壊に対して国民が呆れていることの反映である。
二七日の党首討論で鳩山代表も強調したように、民主党は新しい政治を追求してきたはずである。しかし、手法やスタイルの新しさを売り物にする挑戦者は、二〇年前から次々と現れては消えていった。その種の新しさを誇示すること自体、古臭く見える時代である。新しいという点では、族議員や官僚機構という身内を攻撃し、切り捨てた小泉元首相を超える者は現れないであろう。また、あの時の経験から、政治とは新しければよいというものではないということも、国民は学んだのである。
民主党がこの間の回り道に終止符を打つためには、何のために政権交代を起こすのか、政権を取ったら何を実現するのかという基本的な問いに対する答えを、明確に語ることこそ不可欠である。
なぜ政権交代が必要かといえば、それは国民自身が政策を選択したという正統性を作り出すためである。選挙で国民が政権党とその政策を選択することで、信託を受けた政府は官僚機構の抵抗を排除して政策を実現できる。政権交代直後の政府こそ、政治主導を強力に発揮できるはずである。
政権交代で何を変えるかという点は、政党の思想に関わる。鳩山氏も、友愛を掲げ、党首討論では居場所の確保、悪平等でも弱肉強食でもない第三の道など、思想の片鱗を感じさせてはくれた。しかし、今一つ聞く者の胸に響いてこない。
思想と奇麗事を分かつものは何か。それは語る者の本気度の違いである。思想を持った者なら、自分の理念や価値を踏みにじり、冷笑している敵に対して、怒り、憤るはずである。鳩山氏が人間の尊厳や社会の連帯を言うなら、この数年間、人間をモノ同然に扱うことを助長してきた政策、地域社会のきずなを分断してきた政策、さらにそうした政策を推進してきた政治家に対して、怒り、糾弾するはずである。
市場万能の新自由主義が社会経済を疲弊させた状況で戦われる選挙は、政治の役割を問う絶好の機会である。今こそ政治家の思想の力が問われるのである。
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