百年以上の時間軸で、現代を考える
興味尽きない柄谷哲学の形成史
本書は、哲学者の柄谷行人氏が、作家の小嵐九八郎氏のインタビューに答える形で、学生時代以来の自らの政治的遍歴と思想の展開を回顧した書物である。一九四一年生まれの柄谷氏は、大学一年生で六〇年安保闘争に加わった。以後、政治と向き合いながら、思索を展開させていく。本書は、興味尽きない柄谷哲学の形成史である。
柄谷氏も私も、政治を考察の対象としているという点では共通点がある。とはいえ、私の場合、目先の政治に一喜一憂しながら論評することが主たる仕事であり、視野の広さ、時間軸の長さにおいて、柄谷氏とは対極の存在である。ただ、『世界共和国へ』(岩波書店)を読んだ時、目眩がしたことだけは鮮烈に記憶している。ちょっとした政治の動きで挫折した、絶望したと言いたがるやわな頭を鍛えるためには、哲学が必要だと痛感した。その意味で、どろどろした政治を追いかけている学者が柄谷氏の哲学を読み解くことに挑戦するのも面白いかもしれないと思い、書評を引き受けた次第である。
本書は対談の活字化なので、読みやすい。また、柄谷氏の生涯に沿って話が展開しているので、議論をたどりやすい。以下、私にとって特に興味深い論点を紹介しながら、感想や疑問を述べてみたい。
第一章では、六〇年安保と60年代末の全共闘運動がテーマとなっている。柄谷氏は六〇年安保について遅れて近代化した日本における最初の市民社会の萌芽という固有の意義と、ヨーロッパで起こった新左翼運動と共通点を持つという側面もあると評価している。これに対して、全共闘には日本固有の課題は存在しなかった。二つの運動を経験した柄谷氏は後者が六〇年代初期の運動の反復だったと捉える。たとえば、七〇年代以降に学園紛争の世代がマルクス主義は終わったと言い出したが、六〇年安保の直後にもイデオロギーの終焉がはやり、高度成長と大衆社会に元左翼の目は向いた。そうした流れに逆らうように、柄谷氏は六〇年代末から文学に移り、マルクスを再考するようになった。
特に面白いのは、国家が柄谷氏の哲学の中で重視されている点である。国家が経済的下部構造に規定されるというマルクス主義の定式は既に様々に批判されていた。その流れの中で、フーコーは権力を新たな視角から捉え、ミクロな権力、ミクロな政治という視点を打ち出した。これに対し、柄谷氏は、フーコーの視座の意義を評価しつつ、そのような見方も国家に関する見方をゆがめると批判する。
「一国が何か意志を持った主体であるということは、外からみないとわからないのです。お互いにそうです。内からだけ考えていると、国家の意思というものはみえない」(本書、三三頁)
政治学者にとって国家は自明である。その自明性のからくりをわかりやすく解き明かされて驚いた。国家に対するそのような冷徹な捉え方が六〇年代の運動から出発した思索の中で形成されたのである。
第二章では、七〇年代から九〇年代にかけての思想家としての展開が回顧されている。まず、柄谷思想の出発点が、『資本論』第三巻とカントをつないだ点にあることが、種明かしされる。資本論第三巻は、信用過程を分析している。つまり、資本主義経済なるものは信用のネットワークの上に成り立っていることをマルクスは明らかにしている。即ち、バーチャルな信頼が一旦崩れだしたら、資本主義全体が恐慌に陥ることが不可避である。柄谷氏は、宇野弘蔵の学説を援用しながら、資本主義から社会主義が必然的に生まれるのではなく、社会主義をとるかどうかは実践的、倫理的な問題だと捉えた。そして、実践や自由な選択という点でマルクスとカントをつないだ。そして、カントの統整的理念を鍵に政治や社会に関する構想を展開する。
八〇年代末から九〇年代にかけて、社会主義の崩壊と冷戦の終焉、湾岸戦争から九一一、そしてテロとの戦いと、世界の政治経済は大きく変動を続けた。それに触発されるように、柄谷氏は、『トランスクリティーク』や『世界共和国へ』という体系的な思想書を著している。変動期における理念の重要性について、柄谷氏は次のように語る。
「超越論的仮象(統整的理念)がなくなればどうなるか。いわば、歴史的に統合失調症になる。先進国のインテリは、理念を物語(仮象)だといってシニカルに嗤っているが、それではすまない。すぐに別の理念(仮象)をでっちあげることになる。(フランシス・フクヤマのような単純な観念論や、宗教的原理主義が出てくる。) 理念を必要とする時代は全然終わっていないのです。理念は終わったと冷笑するインテリは、やがて冷笑されるか、忘却される。」(本書、七〇頁)
第二章の最後から第三章においては、柄谷氏が現代をどう捉え、どう行動しているかが語られる。現代社会の構成体は、資本=国家=ネーションというそれぞれ出自を異にするシステムの結合である。それゆえに1つの要素が突出して問題を起こしたときにはバランスを取り戻す力を持ち、この構成体を変革することはきわめて困難である。また、歴史的にみれば、近代世界は一二〇年の周期があり、現代はアメリカによる「新帝国主義」の段階とされる。ヘゲモニー国家としてのアメリカが没落の兆候を示している今、ヘゲモニーをめぐる闘争が始まることが予想される。これに対して、柄谷氏は、統整的理念としての憲法九条を擁護すること、アソシエーションや社会を強化することで、戦争を防ぎ、資本=国家=ネーションを揚棄することを提起している。
以上が本書の概要だが、現代政治を批評する私にとって、役立つ本というのが最初の印象である。役に立つというのは、もちろん柄谷氏の概念で現実を面白く分析できるという意味ではない。短期的、表層的な政治の動きを相対化し、何らかの政治的主張が成就したかどうかという近視眼的な基準とは別の基準で、政治を論じることの意味を確認できるということである。
柄谷氏はたびたび統整的理念という概念を用いている。これは、ヘーゲルの構成的理念と対比されている。構成的理念とは、現実をそれに合わせて構築していくような基準であり、かつてのソ連における社会主義イデオロギーなどがその代表である。近年の日本では、構造改革を支えた新自由主義なども、構成的理念であろう。これに基づいて社会を変革することは、実は理性の暴力であり、惨憺たる結果に終わる。
今日、資本の暴走が明らかとなり、その弊害をどのように政治的に救済するかが各国にとっての大きなテーマになっている。私のような単純な人間は、今こそ社会民主主義の出番だとばかり政府による再分配政策を主張する。しかし、柄谷氏は落とし穴を指摘する。
「これ(社会民主主義)は「社会主義」という統整的理念が機能している間はいいけれども、ほとんどつねに国家資本主義に帰着します。だからむしろ「社会民主主義」によって、資本=ネーション=国家が存続する、といってよいと思う。」(本書、一四二頁)
では、1つの国家の中で、民主主義によって政策を論じることには意味はないのであろうか。柄谷氏は、現代国家の代議制民主政治に対しても、根本的な批判を投げかけている。代議制において国民は幽霊のような支持率という形でしか存在しない。与えられた候補者から代表を選ぶという形式的な民主政治に人々が自足するうちに、代議制は貴族制に変質してしまう。現代日本は、国家官僚と資本によって完全にコントロールされている専制国家だと言う。
柄谷氏が民主政治を支える担い手として、アトム化された個人ではなくアソシエーションを強調すること、デモのような市民の直接行動の重要性を指摘することには同感である。しかし、伝統的な代表民主政治とアソシエーションによる直接参加は決して二者択一ではないはずである。また、国家レベルの政策についてまったく懐疑的になる必要もないはずである。
二〇〇八年のアメリカ大統領選挙におけるオバマの勝利は、世界の多くの人々に政治の可能性を想起させた出来事であった。アメリカのリーダー選びの仕組みは特殊ではあるが、予備選挙を進めていく過程で、地方レベルの市民のアソシエーションが、公民権運動や学園紛争の時代以来久しぶりに復活したことが、オバマが民主党の候補者指名を勝ち取った大きな原因であった。オバマ自身もシカゴの貧困地区におけるアソシエーション活動の出身であり、市民の直接参加がリーダー選びを乗っ取るということもありうるのである。
また、資本の側に回収される圧力に抗しながら、資本の側から市民への再分配を図ったり、資本の動きを制約したりするということには意味がないのだろうか。今日のグローバルな資本の運動に対して、一国の政策が持ちうる意味は限られている。それにしても、たとえば年越し派遣村のようなアソシエーションの運動によって世論が動き、代表民主政治が影響を受け、目前の困窮者を救う政策が作られるという回路には、既存の民主主義とアソシエーションの運動との新たな結合の可能性があるように思える。
私は柄谷氏の本を読んで、優れた知識人とは楽観的な存在であるということを教えられた。統整的理念という無限遠の彼方を見据え、百年以上の時間軸で、現代を考える。現在が世紀単位の大きな変革期であることには間違いないであろう。だからこそ、今こそ本書は読まれるべきである。
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