総選挙に向けて各党がマニフェスト(政権公約)を発表し、それに対する議論も賑やかである。その中でしばしば聞かれるのは、政党がこれから日本の目指すべき国家像、社会像を打ち出せていないという不満である。確かに、マニフェストを読んでも、国民に対するサービス、給付の拡大は訴えられているが、数字の羅列という印象をぬぐえない。
マニフェストとは、マルクスが共産党宣言(communist manifesto)でも使った用語であり、本来は政治的な理想を打ち出し、人々を鼓舞するパンフレットのことである。現在の日本におけるマニフェスト論議では、数値目標や財源が過度に強調されているので、政党の側も萎縮した感がある。メディアも、官僚的発想で政策を論じることに荷担している。
それにしても、なぜ政党や政治家が理想を唱えることが難しくなったのだろうか。一つには、経済や社会の構造が複雑化し、単純な政策目標を唱えることが無意味になったという事情がある。私も、毎週日曜日に放映されているテレビドラマ、「官僚たちの夏」を見て、かつての高度成長期の日本では官僚も政治家も志を持っていたと感慨にふけっている。しかし、あの時代はひたすら経済成長を遂げることが自明の政策目標であり、資本や労働力のグローバルな移動などという厄介な問題は存在しなかった。それに比べて、今の時代、政策を作る際に考えるべき事柄は飛躍的に増え、複雑になっている。その点で、今の政治家は気の毒である。
しかし、目を外に転じれば、政治家の唱える理想は歴史を切り開く原動力となっていることが分かる。アメリカのオバマ大統領は、格差社会から中産層の復活を目指して経済政策を実行している。そして、富裕層からの増税を打ち出している。また、環境面での新産業の創出を訴えている。さらに、対外政策に関しては、核兵器のない世界を目指すことを訴え、原爆投下の道義的責任を認めるという画期的な演説を行った。これらは、実現できるかどうか分からない目標である。しかし、一見困難でも、高い理想に向かって前進する政治家の姿に、国民も、あるいは世界の人々も、よりよい世の中を作ることができるかもしれないと勇気づけられるのである。
日本の政党が訴える子育て支援や環境政策が、新たな社会像にまで昇華しないのは、次のような理由があると私は考えている。
第一に、現在の貧困や不平等に対する政治家の怒りが伝わってこない。自殺者は毎年三万人を超え、家庭の経済事情のため進学をあきらめる若者や、介護のために仕事を辞めざるを得ない人が増えている。こうした人々の無念を政治家はどう受け止めるのか。このような苛烈な社会に対する怒りこそが、あらゆる政策論議の前提となるはずである。その点で、政治家は自らを安全地帯に身を置いて、政策論議をもてあそんでいる感がある。
第二に、漠然と国民全体を代表するのではなく、具体的に誰の思いを代表するのかという政治家の思い切りが伝わってこない。誰にもいい顔をするということは、何もできないということである。たとえば、過去数年の景気回復の中で大いに潤った富裕層や企業に対して、新たな税負担を若干求めるという政策を具体的に打ち出すことができれば、政策が目指すべき社会のイメージは明確になる。
第三に、文明論が欠けている。民主党は、二酸化炭素の排出量をより大幅に削減することを訴えているが、それならばなぜ高速道路の無料化や揮発油税の暫定税率の廃止を言うのか。化石燃料のコストを引き上げ、その財源で低炭素社会のための基盤整備を行うことこそ、二一世紀型の環境政策である。文明の転換にふさわしい政策の発想が必要である。
いよいよこれから本当の選挙戦が始まる。マニフェストはあくまで資料であり、金科玉条にすべきではない。政治家の生きた言葉による論争を通して、二一世紀の日本の姿を形作ってもらいたい。
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