1 自民党政治の終わり わずか四年間で何が変わったのか
東京都議会選挙の敗北を契機とする自民党の内紛は、この党に対する国民の不信を決定的なものにした。もはや総裁を変えたくらいでイメージを転換できるような状況ではない。今回の自民党の危機は、国会開設と政党政治の創始、普通選挙制の導入と無産政党の誕生、五五年体制の成立に並ぶ、数十年に一度という政党政治システムの変革を意味している。
戦後の日本では国民主権と議院内閣制が確立し、形式的な民主主義は早い段階から整えられた。しかし、一九五五年以後、自民党が唯一の保守政党として政権を担い、予算や権限など政府が持つ資源の配分を管理することで、党の生命力を維持してきた。官僚機構も、利益集団も、メディアも、自民党が唯一の政権政党であることを自明の前提として行動してきた。そうすると、形式上複数政党制が存在しても、日本の政治には旧ソ連のような一党独裁と似たような特徴が現れた。
それは、本来自発的結社であるはずの自民党と、公的な制度としての政府との間の境界が曖昧になるという現象である。官僚がその時の与党の指示に従うことは当然であるが、自民党が常に与党であれば、官僚が自民党の利益のために行動することが常態となる。利益集団もその時の政権党に陳情することは当然であるが、自民党が常に与党であれば、自民党の党勢を拡大することに貢献することが、政策的恩恵を受けるための必要条件となる。先日、鶏卵関係の団体が集会に民主党の政治家を招待したことに、自民党の反発を恐れる農水省の官僚が過剰反応し、集会の取り止めを団体に要請したことが新聞で報じられていた。この事件など、一党支配の下で行政機構が自民党という一政党に奉仕することが当たり前となった現実を物語る事例である。
官僚機構の中でも、警察や検察は、自民党が支配する状態を守るべき秩序と考えるようになる。西松建設による献金事件に関する不公平な立件もその現れである。また、自民党の主義主張に反対する市民の政治運動に対して、ことさら過酷な弾圧が加えられることを、警察や検察の官僚機構は怪しまない。
こうした一党支配は、日本の政党政治が発達する過程で、二〇世紀後半という時代の固有な要因によってもたらされた。この時代の政党政治は冷戦構造によって規定された。日本の場合、左派政党が議会制民主主義や市場システムという政治経済の基本原理に十分コミットしなかったため、政権を担う資格を持たなかった。したがって、自民党が唯一の政権政党であった。また、この時期は右肩上がりの経済成長が続き、富の再分配が政治の大きな役割となった。日本の場合、補助金や税の減免など、裁量的な利益配分の比重が極めて大きく、与党の政治家がその配分過程に介入する余地が大きかった。その結果、公の予算が自民党の財産として政治的に利用されたのである。政策的な恩恵を得ようとする団体はすべて自民党に服従することを余儀なくされた。
こうした条件は、実は一九九〇年代から崩れ始めた。冷戦の崩壊によって、誰が政権をとっても議会政治と市場経済は不動の前提となり、自由主義体制の守護者という自民党の存在理由も失われた。日本では、選挙制度改革や政党再編の試みによって、自民党に取って代わりうる政治勢力を育てる努力も行われたが、試行錯誤が続いた。政策面での再分配という機能に終止符を打ったのは、小泉改革であった。規制緩和や公共事業費削減によって、政府がもたらすべき富は大幅に縮小された。ブローカーとしての自民党の役割も大幅に低下した。
二〇〇五年総選挙における自民党の大勝利は、小泉改革が自民党のブローカーとしての役割を否定したからこそ、もたらされた。しかし、当の自民党の政治家はその点を誤解し、自らを唯一の政権党と考えている。そうした過去の栄光にしがみつく自己認識と、烏合の衆と化した現状との間の落差こそ、自民党をめぐる悲喜劇の源泉である。
自民党が唯一の政権党であることをやめ、普通の政党になるためには、ある程度政策的な軸足を定めて何らかの理念を訴えなければならない。しかし、小泉流の新自由主義さえ、党勢立て直しのための方便として消費した自民党である。日本社会の悲惨な現状に対して明確な処方箋を打ち出すことができないまま、総選挙を迎えた。政策的な分裂が大きいことが、反麻生勢力が結集できなかった理由であった。自民党が唯一の政権政党から普通の政党に変わる時には、この党の分裂は不可避であり、今回の自民党の変質は不可逆な変化である。
逆に、二〇〇五年の総選挙からわずか四年の間になぜ民主党が政権交代を間近にするまで態勢を立て直せたのかを考えれば、この党が総選挙で訴えるべき政策の方向も明らかとなる。私は、本誌の二〇〇五年一二月号で、同年九月の選挙結果を受けて、小泉自民党が新自由主義路線を明確にした状況こそ、選挙の大敗にもかかわらず、野党にとっての好機到来と書いた。そして、その好機を生かすためには、民主党が再分配と平等を重視する左派の立場を明確にすることが必要と述べた。
実際に、小泉が首相の座を退き、国民が政治的な意味でしらふに戻ると、構造改革がもたらした社会経済的歪みを意識するようになり、世論は一変した。社会保障と雇用を中心に、政府の適切な役割を期待する声が高まった。そして、小沢一郎前代表のもとで「生活第一」路線を明確にして、民主党は国民のそのような期待を受け止めることに成功した。麻生政権にいたって、自民党も構造改革の弊害を是正する姿勢に転じたが、自民党は社会経済の疲弊に対して責任を負う立場である。また、自民党内には改革路線の継続を叫ぶ勢力も依然としてある程度存在している。
民主党が生活第一の中身を具体的に展開するならば、この総選挙の政策論争において主導権を握ることができるはずである。現実の経済運営において与野党の立場が接近することはやむを得ないとしても、再分配や平等についてより積極的な政党と、消極的な政党という形の対立軸を明確に立てることができるはずである。
2 政権担当能力という神話
政権交代が選挙の最大の争点になるにおよんで、自民党は民主党に政権担当能力がないことを最後の攻撃の論点にしている。わずか一年しか持たない総理大臣を立て続けに二人も選んだ政党が他党の政権担当能力をあげつらうなど、天に唾することでしかない。ただ、政権交代の現実味が増している今、政党が持つべき政権担当能力について考えておく必要がある。
私は一九九七年イギリスに留学し、一八年ぶりの政権交代の実態を観察する機会を得た。長年野党の悲哀をかこち、世代交代した当時の労働党についても、政権担当能力があるのかという攻撃は行われた。しかし、労働党の政権掌握は見事であった。政権獲得後、まず、スコットランドとウェールズへの地方分権、イングランド銀行の独立性の付与、上院の世襲貴族の廃止、情報公開法など、予算をともなわない制度改革を断行し、政治の風通しがよくなったことを印象付けた。そして、ある程度政権が安定した後、医療政策への大幅な予算増、若年層への雇用対策、給付つき税額控除などの本格的な政策を展開し、中間層から下の人々への積極的な利益配分を行った。
政権担当能力とは、与党経験の長さを意味するのではない。政党が、政府の権力を使ったどのような社会を実現したいかという理念を共有しているかどうか、政党を構成する政治家が重要な局面で結束してそのために必死で努力できるかどうかが、政権担当能力を図る試金石となる。
十年前のイギリス労働党は折からの好況に助けられ、財源調達に苦労しなくてもよかった。しかし、自公連立政権が百年に一度の不況を口実に、無謀な歳出拡大を行った今の日本では、新政権はいきなり財源調達に苦労することとなる。民主党は、歳出の無駄を洗い出すことで十数兆円の財源を捻出すると言っているが、この点については工夫が必要である。全国学力テストのように誰が見ても無駄という経費は、実はそう多くはない。無駄の代表のように言われる公共事業でさえ、地域経済をとりあえず支えるためにどうしても必要としている人がいるものである。予算の無駄とは、所詮相対的な議論である。ここで必要となるのは、相対的な無駄を判定するための政策の優先順位である。
この点は、民主党が掲げるべき政権構想(マニフェスト)のあるべき姿とも関連してくる。最近の日本でマニフェストが語られる場合、数値目標や実行期限の明示が過度に強調されている。しかし、これはマニフェストに対する日本的誤解である。マニフェストに相当する英語には、実は2つある。日本で現在言われているのは、manifest(積荷目録)の方であり、政党がどのような政策を積載しているかを有権者に示すものである。これに対して、本物のマニフェストは、manifesto(政治的宣言)の方である。 政党は建築事務所ではない。政党にとって何より重要なものは、どのような社会を作り出すかという理念、思想である。思想もなしに数値目標を掲げれば、政党は官僚化するだけである。
民主党は今のところ野党なので、財源の明細書を作ることは難しいし、そんなことに労力を費やす必要もない。どの分野を削減し、どの分野を充実するかという大きな優先順位があればよいのである。そして、思想や理念があれば、政策の優先順位を決めることは容易である。そして、低い優先順位をつけられた政策の受益者を説得する議論にも迫力が増すであろう。たとえば、道路予算を削減するという方針をとるならば、地元の議員や支持者からどんなに強く要望されても、道路よりも他に重要な政策があると徹底して説得しなければならない。それが政党の持つべき政権担当能力というものである。その覚悟があれば、細かい数字は後から付いてくるのである。
今の民主党を見ていて感じるもう1つの危うさは、形から入る政権準備の安易さである。六月に菅直人代表代行がイギリスを訪問し、政権運営や政官関係について視察した。官僚支配の打破、政治主導は民主党が一貫して叫んできたスローガンで、民主党はイギリスの経験を学び、準備万端と言いたいところであろう。小沢一郎前代表の時代から、民主党が政権を取ったら百人以上の国会議員を行政府に入れて、政治主導の政権運営を行うとも主張してきた。確かに、イギリスでは一四〇人ほどの与党議員が大臣、閣外大臣等の政治的ポストについて、行政府を動かしている。しかし、形をまねれば、中身が付いてくるというものではない。
ブレア労働党政権の場合、誕生時には主要閣僚は四〇代の若手が多く、初めて与党を経験する政治家がほとんどであったが、政権担当能力は十分持っていた。それは、選挙前に労働党のリーダーがしっかり構想を練り、議論を重ね、政権獲得の暁にはどのような手順で何を実現するかという周到な戦略を持っていたからである。また、従来の党内の序列に関係なく、人材の登用を能力本位で行った。
政治主導を唱えることは、政権運営に行き詰まった時に、責任をすべて我が身に引き受けるということでもあり、政党にとってはきわめてリスクの大きい路線である。民主党には政策の優先順位と並んで、与党を束ねていくガバナンスの能力も求められている。政治主導が、単に政治家が威張り、これ見よがしの政治的パフォーマンスに没頭することに終わらないようにするために、行政府に入る政治家に具体的な課題、役割を割り当てることが、党のリーダーに求められている。
3 政権交代で何を変えるのか
繰り返しになるが、自民党が政権担当能力を失ったことは誰の目にも明らかである。今までの日本の政策論議の不幸は、新自由主義的改革か官僚主導の裁量的な利益配分かという不毛な二者択一しか存在しなかった点である。この数か月の自民党の政策論議自体が、その縮図であった。麻生政権は、行き過ぎた新自由主義改革を是正する姿勢を明らかにしたものの、補正予算は超弩級の無駄遣いの陳列場となり、業界や地方自治体の陳情が復活した。経済的な効果についても、その場限りのドーピングのようなものである。そして、これに反発する改革派は、一時倒閣運動を起こし、自民党分裂の構えさえ見せた。
政策論争で自民党に打ち勝つということは、この不毛な二者択一を乗り越えて、社会保障を中心とした政策の再編成のビジョンを打ち出すということである。民主党が政権を取れば、当然補正予算の執行を凍結し、生活保護における母子加算の復活のような政権交代を印象づけるような政策を実行するであろう。しかし、新政権はすぐに成果を上げることにとらわれてはならない。社会保障や雇用の制度に対する信頼を回復すること、持続可能性を確保することこそ、最大の課題である。それらは、一年限りの予算措置で解決できるものではない。中期的視点から構想を打ち出すことが求められている。
現在の日本では、医療、介護、保育など生活を支える社会的サービスが、需要に見合って供給されていないところに、国民が不安を持っている。政策体系全体の中で、公共事業や農業と比べて、これらの政策は比較的新しい課題であり、予算の配分も十分ではない。介護の場合、政府自体が需要の存在を認知し、介護保険という政策を創設したものの、予算の投入が圧倒的に少ないために、供給力が絶対的に不足している。そのために、施設入居の長い順番待ち、ヘルパーの人手不足という問題が恒常化している。需要ベースの政策供給とは、義務教育が典型である。離島や僻地でも、子どもがいれば必ず公立学校を建て、教師を配置して、教育を提供しなければならない。これらの社会サービスをそのような需要ベースのシステムに組み替えることができれば、人々が安心して生活できる社会が実現する。
そのためには、ブレア政権が医療政策について行ったように、継続的、計画的な支出増が必要となる。まず、歳出の組み替えによって財源を確保することが必要だろうが、おそらくそれだけでは足りないであろう。鳩山由紀夫代表は、今後四年間は消費税率を引き上げないと述べて、増税論議を先送りした。しかし、それは民主党政権の手足を縛ることにつながるであろう。財源確保の議論が直ちに消費税率の引き上げに直結しなければならないというものではない。所得税の累進制の強化や、企業の社会保険料負担の回復など、社会保障の財源調達にはまず手をつけなければならない課題がある。それにしても、国民負担に手をつけずに社会保障の拡充を言うのは、無責任の謗りを免れない。
政権交代は、日本の民主政治にとってそれ自体目的である。しかし同時に、生活第一を具体化するための政策転換を図る上では、最大の武器となる。国民によって選ばれた政権は、大きな正統性を持つ。選挙の際にある程度具体的な提案を行い、国民がそれを選んだという手続きを踏んでいれば、新政権はそれを実現するための強い権力を手にすることができるのである。民主党が圧倒的な優勢を伝えられる中、この好機を利用しない手はない。今後の政策課題を見据えつつ、大胆な政策構想を国民に提示し、国民から負託を取り付ける政治的戦略が必要である。
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