なぜ自分たちか、まず胸に刻め
国民自身の手によって政権交代が実現した。民主党が結成されてから十数年、この党が軸となる政権交代こそ日本の民主政治に不可欠だと主張してきた者としては、個人的にも感慨深い。
民主主義とはそもそも革命の制度化であり、昨日の少数派が今日の多数派になるというダイナミズムこそ、民主政治の本質である。政策選択以前に、国民の手によって権力の担い手を入れ替えることは、それ自体が民主政治にとって不可欠である。自民党が時には権力から離れる普通の政党になれば、メディアも国民ももっと自由にものが言えるようになり、社会の風通しはよくなるに違いない。
政策の全体的な方向付けについても、多様な観点からの議論が活発になり、国全体として環境変化に対する感受性や対応力が高まるはずである。
しかし、無邪気に喜んでいる場合ではない。この勝ち方を見ていると、民主党政権について様々な不安が湧いてくる。
最大の疑問は、民主党の議員が、国民が1票に託した思いを的確に理解しているかどうかである。国民は、自民党を罰するために民主党に投票したのであって、民主党に全面的な支持をしたのではない。その判断の根底には、単なる自民党政治に対する飽きではなく、過去数年の改革路線に対する否定的評価が存在している。
親の経済的事情で学業を断念した若者の無念。介護に疲れて親を殺すことまで考える人の絶望。まじめに働いてきたにもかかわらず職を奪われた人の怒りと不安。自民党政権時代に人間の尊厳を無視して顧みない社会が現れたことへの怒りが、責任などという言葉を平気で使う恥知らずの自民党を完膚無きまでに打ちのめしたのである。民主党の議員は、自分が誰を代表するのか、政治活動を始めるに当たって深く胸に刻むべきである。
もし民主党政権が国民の窮状を救うことができなければ、国民はたちまち民主党に幻滅するであろう。そうなれば、今回の選挙に表れた国民の不満や怒りは、政党政治そのものへの拒絶に向かうであろう。メディアにおけるパフォーマンスだけが得意な怪しげな政治家が、既に出番をうかがっているのかもしれない。政権交代という好機を逸すれば、日本の民主政治はたちまちもっと大きな危機に陥ることを、民主党は銘記すべきである。
政権交代の機会を生かし、政治の可能性を広げていくために民主党が何をなすべきか、いくつかの提言と注文をしたい。
第1は、統治システムの刷新である。民主党は、政治主導を唱え、政治家を100人以上、行政府に送り込むと言っている。その点に関して、私は形から入る政治主導の危うさを感じる。初めての与党経験に舞い上がった民主党の政治家が各省の指導的地位に就き、これ見よがしのパフォーマンスを行って大きな混乱を生む情景が目に浮かぶようである。機構や手続きをつくれば、ひとりでに政治主導が実現するわけではない。
政治主導を実現するために何よりも必要なのは、政治家の意思である。更に、その意思の根底には、これから自分が取り組もうとする社会の不条理に対する怒りと憤りが存在しなければならない。かつてマックス・ウェーバーは官僚について、「怒りも興奮もなく」仕事を淡々とこなすところに本質があると評した。その官僚を使いこなす政治家には、逆に怒りや興奮が必要である。何かを実現したいという意思があって、初めて組織や人事における政治主導は意味を持つ。
政治主導は行政官の排斥と同じではない。行政官はそもそも自分の持ち場で必死に仕事をする習性を持っている。今までその能力が無意味な事業に浪費されたのは、政治家が行政官に対して的確な役割をあてがってこなかったためである。また、行政官、特に中堅以下の人々は、自分の組織の問題点を理解しており、個人的に変革の志を持った人も多い。たとえば職員から大臣宛に手紙を書かせ、問題点をえぐり出すとともに、現場からの提案を募るなど、行政官の貢献を引き出すことも政治的手腕である。
民主党は実体的な政策転換を急ぐべきではない。その前に情報公開によって統治システムを刷新することこそ、あらゆる政策形成の大前提である。
今、非核三原則をめぐる密約の存在が話題になっている。この種の二重帳簿を暴くことは、政権交代をテコにすることでしか実現できない。公共事業など予算が大きく動く分野には、様々な伏魔殿が存在する。昨年の道路特定財源をめぐる議論で、その一端が明るみに出たが、野党側からの追及には限界があった。あの時に鋭い追及をした有能な政治家をそのまま各省の要職につけ、その権力を行使するならば、伏魔殿の実態を明らかにすることができるはずである。最初の100日を集中的な情報公開期間と定め、積年の腐敗をえぐり出すことができれば、民主党政権に対する期待も高まるであろう。
第2は、実体的な政策論議についての注文である。私は、今回の選挙においてマニフェストが大きな役割を果たしたとは思わない。国民がマニフェストを読み比べて民主党を選んだなどという神話を信じてはならない。世論調査によれば、民主党の政策各論について、必ずしも国民が高い評価をしているわけではない。ということは、律儀にマニフェストの項目を実現し、自分で合格点をつけるなどという発想をするべきではないのである。政権運営と試験勉強は違うのだ。
数値目標だの財源だのを過度に強調すれば、政治家が本来持つべき構想力がしぼんでしまい、官僚の発想に近づくことになる。官僚批判が売り物の民主党にとって、何とも皮肉な現象ではないか。
今の閉塞感を打破するためには、大きな社会ビジョンを提起することこそ、政治家の使命である。たとえば、従来の日本の社会保障制度や税制は、自民党政治家の保守的な家族観を反映し、父親が一定水準の給与を得て、母親は専業主婦として家族の世話をするというモデルを前提としてきた。経済の現実はこのようなモデルから離れて動いており、たとえば保育所不足という形で、実態と政策の乖離に多くの人々が苦しんでいる。
政治家の仕事は、政策の前提となる家族像を転換し、多少賃金は下がっても夫も妻も働いて、家族の生活を支えるというモデルを示し、それを具体的に支えるような税制、社会保障制度、さらに介護、保育などの社会サービスの整備を構想するという点にある。
社会保障に限らない。国土の姿、環境政策のあるべき方向。多くのテーマについて、21世紀にふさわしいビジョンを語ることが求められている。
この種の社会像を理解可能な形で提起するためには、政治家が生きた言葉で、自らの理想を語らなければならない。新政権への期待が高いうちにビジョンを語ることはできるはずである。
そのためには、少なくとも国会や国際会議での演説の原稿を政治家自身、および政治家が個人的に任命したスタッフが書くという原則を譲るべきではない。従来の政策との整合性、継続性などと官僚が口出しをしても、聞く必要はない。そもそも、この政権は政策を転換するために作ったのである。政治家が遠慮してはならない。
今回の政権交代を契機に、日本に本当の意味での競争的政党政治を確立する必要がある。民主党が単に自民党に取って代わって永続与党を目指すのでは、意味はない。大勝したばかりの民主党にとって、自らが再び野党になった時のことを視野に入れて新しい政党政治の慣行、いわば21世紀の「憲政の常道」を作り出すことが、むしろ急務なのである。
新しい「憲政の常道」は、次のような原理から成るべきだと考える。
第1は、多数の専制に対する自制である。民主党が野党時代に、政府を追及しても、まともに質問に答えないまま審議時間だけが過ぎていく、という不満をしばしば聞いた。ならば、民主党政権の下では、野党のまともな質問には丁寧に答え、論戦を復活させなければならない。
第2は、第1の点とも関連するが、野党を尊重することである。たとえば比例代表部分の定数削減という公約はむしろ棚上げにして、与野党で新たな議会政治の慣行作りに取り組むべきである。
第3は、批判的なメディアの自由な活動である。そもそもメディアは権力を監視し、批判することが本来任務である。権力を取れば、メディアの厳しい批判を受けることが運命だと、民主党は覚悟しなければならない。
自民党が、深い反省の上に再び政権奪還に取り組む態勢を整え、政治の世界で多事争論が花開く時、日本の政党政治はようやく本物になるのであろう。選挙だけが民主政治ではない。国民の多様な参加が政党政治を鍛えていくのである。
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