今回は、いささか楽屋話になるが、政権交代と政治や政策をめぐる言論のあり方について考えてみたい。日本では、学者や評論家はあまり自らの党派性をはっきりさせずに、中立的な立場からものを書くことが多い。党派性を出さずに発言するということは、どの党が政権を取っても、それに対して提言するということである。しかし、言論に携わる者の責任を明確にするという観点から、それでよいのかという疑問も感じる。
たとえば、9月24日の朝日新聞朝刊に掲載された小林慶一郎氏の「経済的自由を後退させるな」という文章は、まさに日本的言説の典型であった。同氏は、2005年の総選挙で小泉改革を支持した民意は、2009年選挙でも持続していると主張し、民主党政権に対して経済的自由を尊重せよと提言している。今年の総選挙の結果をどのように解釈するのも自由である。それにしても、小林氏の主張は度の過ぎた我田引水のように思える。
反論すべきことはいろいろある。ここでは、1点だけ小林氏にお願いしておきたい。誰しも自由でいたいに決まっている。しかし、今の日本で、たとえば時給700円で酷使される非正規労働者、親の介護のために仕事を辞めざるを得ない女性、家庭の経済的事情で高校を中退する若者にとって、自由とは一体何を意味するのか、想像してみてほしい。
小泉時代以降の日本では、自由が恵まれた境遇にある者の特権になったことこそ、閉塞感が高まった原因である。自由を実質的に確保するためには、政府による積極的な支援策が必要であり、また強者の自由をある程度抑制することも場合によっては必要となる。今回の選挙において民主党を選んだ国民の多くは、自由をより公平に謳歌できる社会を求めて政権交代を起こしたと、私は考える。
小林氏の議論を読むにつけ、日本の言論界における最大の党派は「権力党」であることを痛感させられる。たとえばアメリカで新自由主義に基づく小さな政府をあおった学者が、オバマ政権に対しても同じように小さな政府を提言するなどということはあり得ない。政権交代が起これば、政策をアドバイスする学者も入れ替わるのが当然である。日本の場合、常に権力に対して提言する専門家がいるようである。専門家による余計なおせっかいのために、選挙における国民の選択がゆがめられるようなことがあれば、民主政治が機能しなくなる。経済的自由を尊重せよなどというお説教は、野党になった自民党に授ければよいではないか。
政権交代によって1つの政策主張が退けられたら、それを支えてきた学者、専門家も敗北したことを認めるべきである。言論に携わる者は、自らの主張が人々に受け入れられない場合、すべからく「時に利あらず」という感覚を持たなければならない。そのことによって言論自体も進歩するのである。
私の場合、民主党が中道左派路線をとることによって政権交代を起こすというシナリオを主張してきた。その意味では、2005年選挙の大敗はショックであった。しかし、小泉のもとで自民党が新自由主義路線を明確にしたことは、中道左派路線を民主党に埋め込むための最大のチャンスという認識もあった。民主党の生活第一路線は、あの大敗北があったからこそ可能となったのである。要するに、負けを糧にして政党も、言論人も再生するということである。
学者、専門家と政治や政策決定の関係について、政権交代を機に変えるべき問題はもう1つある。それは、族学者の存在である。各省の官僚と結びついて、政策にお墨付きを与える学者を族学者という。政官業に加えて、学者も利権共同体の片棒を担いでいるのである。今話題になっているダムなどの公共事業を推進するうえでも、河川工学や道路工学などの専門家が、官僚と一緒になって事業を推進する上で理論的な正当化を行ってきた。経済の分野でも財務省や経産省は族学者を抱えている。日本の場合、官僚と対立するような政策主張を支える専門家は、極めて層が薄かった。そして、官僚は一貫して、異なる理念や方向を持つ専門家、学者を排除し、無視してきた。したがって、異なる意見の間の本格的な論争も存在しなかった。
政権交代は、そのような官僚と学者・専門家の閉鎖主義を打破する絶好の機会である。各省大臣は、審議会の役割と構成員を全面的に見直すべきである。そして、官僚の打ち出した政策を単に追認するだけの審議会なら廃止し、多様な意見を聞くための新たな議論の機関を設けるべきである。
近年、政治学では討議あるいは熟議民主主義という理念が注目されている。民主主義は国民が選挙で投票したら終わりというものではない。市民が具体的な政策テーマに関して議論に参加し、政策決定に関与することが民主主義にとって不可欠だというのが、これらの理念の根底にある考え方である。実際にヨーロッパでは様々な形の市民参加の実験が行われている。
先日私はNHKの「日本のこれから」という長時間の討論番組に出て、多くの市民とともに民主党政権の課題について議論した。参加者は、それぞれ立場は違っても、政治に対してきちんとした意見を述べていた。小さな例ですべてを語るわけにはいかないが、日本の政治文化も変わっているように思えた。
かつて民主党は「市民が主役」を標榜していたはずである。今でもその理念が生きているならば、政策決定過程に対する市民参加の手法についてまじめに考えるべきである。その点は、公共事業の撤退のように、一部の関係者に大きな損失を強いるような政策において特に必要となる。マニフェストに書いてある政策は金科玉条だから、国民は文句を言わずにそれに協力しろというのでは、民主党という看板が泣くというものである。
|