「この人・この3冊」 山口二郎・選 辻井喬
辻井喬という人は、当代日本で最も多くの顔を持つ文化人である。彼が自分自身を語ることが、そのまま戦後日本の政治、資本主義経済のある側面を鋭く照射することになる。それは彼自身がまさに波乱に富んだ経験をしたことに由来するが、それにもまして自らの経験を対象化し、言語化する能力を持っているからである。多少能力があれば散文による表現はできるが、詩を書くには並はずれた言語能力が必要だろうと、散文しか書けない私などはあこがれる。
自己を語ることが、決して単なる自己陶酔にならず、かといって必要以上の自己否定にもならないというのは、不思議なことである。それだけ自己を見つめることが深かったということなのだろう。そうした苦悩は、自身および家族をモデルにした小説で描かれている。だが、私にとってはフィクションよりも、回顧録の方が率直で、面白い。これは戦後史に関する一級の史料である。学生時代に共産党に入って政治闘争に加わったがゆえに、権力の本質的部分にぶつかり、経済人となってからは敢えて政界から距離を置き、政治家を冷静に観察することができた。
自伝詩の中では、自らを多重人格、スパイ、越境者と表現している。様々な分野をまたにかけて活躍した人物の実感だろう。ただし、辻井の場合いろいろな顔を持っているだけでなく、様々な顔の裏には自分を突き放す厳しさが一貫している。そして、その厳しさは中野重治の感化によるのではないかと私は想像している。中野との交際は回顧録の中でも触れている。辻井の詩には、中野の詩の生真面目さ、堅さが継承されているように思える。
もう一つ、辻井の資本主義の批評家という側面を逃すことはできない。それを最もよく示すのが上野との対談である。高度成長、消費社会の到来、そしてバブルの崩壊と方向喪失という戦後日本経済の展開を、小売業という消費者の最も近くで観察、実感したが故の深い洞察がある。共産主義からは離れたものの、対抗原理があるからこそ資本主義は生きながらえてきたという緊張感を失わない。一九八九年の壁の崩壊についても、素直に喜べない自分への当惑を自伝詩の中で表現している。
辻井は、自己内の、家族内の、そして組織やイデオロギーの間の様々な葛藤を生き、そこから文学と思想を作り出した。葛藤が消滅した時代にこそ、もう一度読む意味がある。
(毎日新聞「この人・この3冊」2010年5月2日朝刊)
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