民主党幹事長を退くことになった小沢一郎氏とは、2006年、彼が党代表になったころから何度も会い、政権交代を実現しようと話をしてきた。「悪役」の汚名を着せられ、鳩山首相に引導を渡される形で表舞台から消えるのは惜しいことだと思う。
小沢氏と私は「国民の生活が第一。」というキャッチフレーズで共鳴し合っていた。もともと新自由主義的な考えで「日本改造計画」を書いた小沢氏は、社会民主主義路線に転換しようとした。彼が06年の代表選の演説で「まず私自身が変わらなければなりません」と言ったのは、うそではなかったと思う。雇用危機や地域社会の荒廃に立ち向かおうとする民主党の姿勢には小沢氏なりのリアリズムが反映していた。
内閣支持率が低落したなかでの退陣劇だけに、悪かったことばかりがクローズアップされるが、政権交代の意義や成果は、フェアな議論をしてあげなければいけない。外交密約の公開や事業仕分けは、政権交代があったからだと私は断言する。官の聖域に多少なりともメスを入れられたからだ。子ども手当の支給や高校無償化も、自民党的な利益配分から普遍的な福祉国家づくりへの転換であり、高く評価したい。
しかし、小沢氏は最も得意とする選挙で自ら墓穴を掘った。小沢氏の選挙至上主義、つまり選挙に勝って権力を握り、多数派が政治を行うのが民主主義だという論理は、非難されるべきではない。
ただ、小沢氏の最大の失敗は、すでに(総選挙で大敗して)死に体になっている自民党を、さらに死なせようとしたことだ。小沢氏は今夏の参院選を自民党を完膚無きまでに打ち倒す最終戦争と位置づけてしまった。そのため、自民党の支持基盤への介入、多くのタレント候補の擁立などの選挙戦術に走った。
しかし、有権者が望んでいるのはそんなことではない。民主党政権ならではの、新しい政治を見せて欲しかったのだ。この半年間、私は「亡くなった人は放っておいたほうがいい。やるべきことは別にある」と言ったが、小沢氏や民主党には通じなかったようだ。偽メール事件で傷ついた民主党を戦略的に立て直した小沢氏だったが、自民党以上に自民党的な手法で、国民の幻滅を招いてしまった。
国民がどう見ているか。それを意識し、どうすれば選挙の勝利につながるのかを、小沢氏ともあろう老練な政治家が、どうして広い視野で見通すことができなかったのか。
政治資金をめぐる自らの疑惑についても、公開の場で自民党議員の質問を堂々と受ければよかった。野党から政権与党に立場を移した以上、自らの政治手法を隅々にわたるまで説明すべきだった。小沢氏は結局、政治そのものを刷新することの意味を理解していなかった。自民党政治に終止符を打ったところで、彼の役割は終わっていたのだ。
次の代表、首相選びに向けて民主党内が動き出している。まず、鳩山首相を支えてきた菅直人副総理権財務相はじめ官僚たちは、この8ヶ月を徹底的に自己点検してほしい。なぜこんな惨めな崩壊に至ったのか、それぞれどういう責任を負っているのか、自分の問題として反省してほしい。そして次のリーダーはその総括を踏まえたところから出発することが重要だ。
どうか国民もメディアも結論を急がないでほしい。政権交代は福沢諭吉が提唱し吉野作蔵が引き継いだ100年がかりのプロジェクトだ。
堀田善衛の著書を最近読んでいて出会った言葉がある。彼は1990年前後の東欧革命について「自由と開放の後に幻滅が来ないとしたら、そっちの方が不思議だ」「民主主義とは、これが民主主義か?という幻滅をあらかじめビルトインされている」という意味のことを述べた。今の日本にもそのまま当てはまる。
何度も幻滅させられながら、それでも民主主義を求める。民主主義とは、そんなあくなき挑戦の繰り返しだ。我々は「どうせだめ」などと冷笑に陥ってはいけない。
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