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ベンチャーキャピタルとは何か
濱田 康行
 
 

 アメリカのベンチャーキャピタリストの先駆者で本書にも登場する、ジャック・ホイットニーは言う。

「新しい、かなり将来性が見込めるが、それなりのリスクを伴うアイデアに資金を出す組織的な資本形態」

 手短かにいえば"成長可能性のある企業に投資する機関・組織"がベンチャーキャピタル、そしてそれを構成する主要な人物をベンチャーキャピタリストと呼ぶ。

 ベンチャーキャピタルが主要各国(日本は除く)の金融界で独自な地位を占めるのは"成長可能性のある企業に投資する"という機能が銀行などの金融機関にはないからである。企業の生成と成長には資金が必要だ。しかし、社歴の浅い企業は担保や信用力の点で借金は難しい。多くの場合、創業はそれをする人、すなわち創業者(あるいはその周辺)の資金を使ってなされる。しかし、この方法だけでは資本主義の活力・ダイナミズムを維持するのに充分な数の企業は生まれない。そこで、ベンチャーキャピタルなる組織が時折必要とされる。

 この組織が最初に出現したのは第二次大戦後のアメリカである。本書の第2部に先駆者達が登場するが、彼らの証言はベンチャーキャピタルの発生史を考える上で興味深い。ベンチャーキャピタルは1920年代にイギリスで伝統的なマーチャントバンカーの仕事の一部として出現し、やがて大西洋を渡ってアメリカで独立したビジネスとなった。これがこれまでの通説だが、本書によるとやや異なる。ホイットニー氏が自分の仕事をニューヨークタイムズが投資銀行業務と呼んだことに腹を立て、仲間内で考えた呼称が"ベンチャーキャピタル"であったという。

 確かにベンチャーキャピタルという言葉はイギリスにあったが、後にアメリカで発展したものとは違うようでもある。むしろ、ベンチャーキャピタルは戦後のアメリカ的情況の産物であると考えた方がわかりやすいかもしれない。アメリカ的情況とは自由で前向きでダイナミズムにあふれた経済社会を望む風潮である。そして、10年不況で疲弊した日本、資本主義として劣化した日本経済も逆説的ではあるが、ベンチャー化によるダイナミズムの復活を望んでいる。

 ベンチャーキャピタリストとはどんな人々なのか。先にベンチャーキャピタルの短い定義を述べたが、この中にもキャピタリストに必要とされる要素が含まれている。まず、対象となる企業が成長するかどうかの目利き能力が必要だ。次に投資はタイミングが肝要だから決断力のない人には不向きだ。そして何より必要なのは、投資先企業の経営者と一緒になって企業価値を高めていく能力と努力である。私は、この最後の要素を創造性と呼んでいる。読者は本書の中にこれらの三要素を持った人物を多く発見することだろう。

 資金を動かせればベンチャーキャピタリストになれるのではない。ベンチャーキャピタリストの仕事は創造的であることを基本とするが、やり方を間違えれば、キャピタルゲインに寄生するだけのつまらない仕事になってしまうのだ。アメリカでもベンチャーキャピタルを「史上最高額の資本を持つならず者集団」とみる向きもあることが本書で紹介されている。しかし、私の見るところ、この危険性は日本の方がはるかに高い。

 アメリカのベンチャーキャピタルの投資残高は1400億ドル(1999年の実績)もあり、2000年の新規投資額は300億ドルもある。すでに金融・証券の世界の一大産業なのだ。では、この一大産業はアメリカ経済の発展に貢献したのか。答えは、大いに"イエス"なのだ。アメリカ経済をリードする新しい企業がベンチャーキャピタルの支援を受けている、シリコンバレーの成功物語をどれでもよいから辿っていけば、彼らの存在に行き当たる。1990年代の後半のIT革命では、アメリカでも少々やりすぎたようだが、ベンチャーキャピタルの活躍は顕著であった。だから、彼らは高級な産業であり、本書にみるようにそれに従事する人々の誇りは高いのだ。

 では日本ではどうか。2001年3月末で投資残高は1兆円、年間の新規投資額は4000億円である。アメリカの10分の1以下の水準だが、これでも日本の2000年はベンチャーキャピタルの当たり年だったのだ。日米の比較という点で私が本書を読んで驚いたのは、アメリカにはベンチャーキャピタリストが5000人〜7500人もいるということだ。ところが日本のベンチャーキャピタリストの数はわからない。証券アナリストのように検定試験があるわけではないから、自称でもかまわない。事実、ベンチャーキャピタル関係の集まりに出ると、名刺にベンチャーキャピタリストという肩書きをつけている人にも会う。これは私見だが、日本にはベンチャーキャピタリストと呼ぶにふさわしい人は極めて少ない。おそらく100人もいないのではないか。日本にはベンチャーキャピタル会社が180社もあるのに100人以下とはどうしたことだと思われるだろうが、これが日本の現実だ。どうしてこういう妙なことになったのか。

 日本にベンチャーキャピタルが出現したのは1970年代の初頭である。発生史的にはアメリカに四半世紀遅れているが、発展期でみるとそうでもない。アメリカでも本格的に発展したのはナスダックがスタートした1970年代だからだ。日本の発展期は1980年代の中頃だから、遅れは10〜15年というところだ。問題は時期ではなく発生の"仕方""スタイル"である。アメリカでは個人の仕事として発展したベンチャーキャピタルが日本では会社の仕事として発展した。極端なことを言えば、辞令をもらった銀行マンや証券マンが、ベンチャーキャピタルの意味もよくわからないまま始めたのである。

 しかし、ここからが日本という会社本位社会のすごいところだ。ベンチャーキャピタルの発展史としてはおそらく変型なのだが、いわば日本型として発達しそれなりの結果を出したのだ。投資残高はアメリカの10分の1といったが、キャピタリスト不在でこれを成し遂げたということはそれなりに驚くべきことなのだ。

 問題はこれからだろう。このまま日本型で突き進むのか、それともベンチャーキャピタリストを生み出してベンチャーキャピタルの本来の姿に戻るのか。どちらになるかは研究者として興味のあることだが、私は現状では後者だろうと見ている。というのは、日本にも比較的若い層にベンチャーキャピタリストの資質と経験を持った人々が出現しているからだ。だから将来、本書の日本版が出版される可能性もある。その時の顔ぶれをみること、そしてその本の解説を書くことを私の楽しみにとっておきたいと思う。