Globalization & Governance
Globalization & Governance to English Version Toppage
トップページ
学術創成研究の概要
研究テーマの紹介
メンバープロフィール
プロジェクト関連出版物
ディスカッションペーパー
シンポジウム・研究会情報
国際シンポジウム情報
アクセス
リンク
 
 
3月危機の実像
濱田 康行
 
 

 この数年、3月、9月という企業の決算期が近づくたびに"危機"説が出る。これ自体が日本経済の劣化を示しているのだが、2002年3月は悪い意味で格別のようだ。一体、何が危機で、本当にそうなったら私達の暮らしはどうなるのか。日本経済を下から支えている普通の人々の目線でとらえると"危機"とは何か。その実像を探ってみよう。

 <危機の位相>

 一体何が危機なのか。人によって考えていることが違うのだが、もっとも流布されているのが金融危機である。金融危機という場合の直接的表現は金融機関の倒産(それもひとつやふたつではない連鎖倒産)である。倒産に至らなくても、金融の機能が一時的に麻痺すればこれは立派な危機である。最近では、1997年の秋に一度、かなり"危ない"状況を私達は経験している。その前年の信用組合、住専に続いて、三洋証券、山一証券、そして北海道拓殖銀行の破綻が相次いで生じた。しかし、この際は、受け皿機関の対応や総額60兆円にのぼる対策基金の用意がなされ、本格的な危機は避けられたのであった。

 今3月期には1997年にはない要素がふたつある。ひとつは4月1日から実施されようとしているペイオフ解禁、もうひとつは3月決算から本格導入される時価会計である。

 ペイオフ解禁などということをなぜ現在の状況下で実施しなければならないのか、実は大いに議論のあるところだ。混乱している時に更なる混乱要素を持ち込むのは得策とはいえないのだが、ペイオフ解禁はいつの間にか国際公約に昇格してしまい、小泉政権はなんとしても実施する構えである。実は国際公約であるというのは根拠がないし、実際にもペイオフ云々は国内の預金者の問題である。いわゆる"外人"がこれに関心を持っているとは思えない。また、日本の国際公約はこれまでずいぶん反古にされており(典型的なのは1990年代に流布された"銀行大手21行は潰さない"というもの)国際的な信用性は既にないのである。

 とにかく、約束は守るという"型"を気にする現政権はこれを実施するわけだが、そうなると中小の金融機関から大手への預金の移動は避けられない(現にそれは生じている)。当然のことながら、中小の金融機関(多くは地域に根ざした金融機関)は文字通りの危機になる。金融機関にとって預金が流出するということは、当面は"取り付け"の危機であり、中長期的には"貸付不能"の危機である。ところが金融庁には、これらの中小金融機関を守るという姿勢はみられない。むしろ、淘汰されればよいと考えているようにもみえる。"お上"にも見捨てられた金融機関はそれこそ危機に立たされている。

 時価会計の導入は、むしろ大手の金融機関に影響する。大和総研の試算によれば、最近の株式価格の値下がりで大手銀行の株式含み損は4兆7000億円、さらに株価が日経平均で1000円下がる毎にそれは2兆5000億円も増えるという。

 銀行の資金が借り手に順調に貸し出されるのは、次の三つの源泉があるからである。@過去に貸し出した貸金が返済される。A新たな預金が入ってくる。B利益が積み立てられ貸金として使える。@がうまくいかないのが不良債権問題である。だから、不良債権の処理は新たな貸出に必要である。しかし、それだけではない。後にも述べるが、最近の論調は不良債権処理さえすれば万事解決という主張だが、それは誤りである。Aについては先に述べたように中小金融機関が最も困っている。しかし、彼らが持っている株式はさ程多くない。日本の最大の株主といえば大手の金融機関であり、株価の低迷はここに大きく影響する。株価の低迷は時価評価では利益の減少に直結する。財務諸表上で利益が出ても (預金者にほとんど金利を払っていないので業務純益は多くの銀行で大きくなっている)それが、含み損で相殺されてしまう。だから、Bのルートが事実上働かなくなってしまうのである。

 以上のことから、今3月期は特に銀行が心配のようだ。しかし、金融機関が危機になると次に何が起こるのか。それは、金融機関から資金提供を受けている企業が困るという型で展開する。中小金融機関なら中小企業、大手なら大企業だが、特に問題なのは前者だ。というのは大企業には銀行以外にも資金調達の方法があるからだ。

 中小企業の多くは借入金に依存している。金融機関が危機に陥り、資金供給が滞れば、借り手の危機となる。また銀行は諸企業の決済を行っているから、それが順調にいかなければ支払不能による連鎖倒産も心配しなければならない。こうなると"危機"は第二の位相に突入する。銀行の危機は企業の危機(特に中小企業の)となる。


 <真の経済危機>

 しかし、次に生じる事態に比べれば、銀行のいくつかが破綻したり、中小企業の一部が倒産するのはまだ序の口である。問題は、血液であるお金の流れが止まり、決済も混乱することで大量の連鎖倒産が発生し、生産活動が止まり大量の失業者が生まれることだ。それは働く人々の生活の危機である。現在、心配されているデフレーションはまだ生産が続いているという意味では軽傷である。真の経済危機になれば人々にはもはや働く場所がない。工場や事務所は既に閉まっており、経済活動は休止する。所得は途絶えてしまうから、人々は貯蓄から生活必需品を買うことになる。しかし生産が止まっているのだから、在庫品の価格は高騰する。デフレはおそらく一夜のうちに止めようもないようなインフレに転化する。日本からの資本の引き上げが一斉に生じ、インフレもあいまって円は主要外貨に対して急落する。ひと昔前に、日本人が円高を良いことに海外旅行を楽しんだのはまるで嘘のようなことになる。

 経済危機が長く続けば、治安は悪化し、人々の心は荒れ、社会の危機となる。また、文化的にも大きな後退現象がやってくる。

 ここで強調すべきは、こうした経済危機になれば、大きな被害を受けるのは職を失い、インフレに直撃される普通の人々だということだ。現政権は、金融危機を救うためと称して第三次の公的資金投入を考えているようだが、問題の核心は銀行を救うこと自体にあるのではない。また、大手スーパー、ゼネコンへの巨額の債権放棄が取りざたされているが、やはり問題はその先にある。


 <人々の危機を救う>

 単に銀行を救うなら、公的資金の投入、また人員削減を中心とするリストラ断行も効果はあるだろう。しかし、それでは真の危機への対応にはなっていない。ゼネコン問題もしかり。痛みに耐えるという言葉が流行してしまっているが、痛みを感じていない人がそれを言うのは問題だろう。失業率は一時的に高まっても、それは一時の我慢だというのは本当か。ワークシェアリングなどという方策が突然のようにもてはやされているが、実は雇用を生み出す方策が当面、見当らないという告白にもみえる。

 危機への対応は、真の危機・人々の生活の危機をにらんで行われるべきだ。言葉を変えて言えば、本当の危機は普通の人々の危機なのだから、人々の生活の困難を増大するような方策は現時点で採用すべきではない。そういう観点では、ペイオフ解禁も適当な方策とは言えない。普通の人々を混乱させるだけだ。また、不良債権処理を必要以上に急ぐのも問題だ。潰れる企業は早いうちにという考え方には落とし穴がある。体の中の膿を全部出して綺麗な体になりたいという資本主義信奉者の願望は理解できるが、彼らは資本主義を知らなすぎる。資本主義は、彼らが思っている程、純粋ではない。むしろ、体内に不純や不正を抱えながらでも前進することができる点が、敢えて言えば美しいのである。最近では、インフレタ−ゲットなどという危ない方策が議論されているが、これなどは美しい資本主義論とは逆に資本主義の持つ狂暴さを知らないからである。

 現在の北海道の経済状況をみていると、むしろ時限を切って公有・公的管理を前面に出した方がよいと思われる。雪印もこのまま放っておけば"危機"に耐えられない。私達はこれまでなんのために税金を払ってきたのか。"危機"になる前に公的な手段が採られるべきだし、人々はそれを望んでいる。もちろん、働く気のない役人に未来をまかせられるかという危惧はあるのだけれども、そういう人達ばかりではないという希望もまた私達は持っているのである。

 

(2002年2月末)
※この論文は社団法人北海道雇用経済研究機構に寄稿したものです。