〈不良債権問題は日本の危機か〉
多くのエコノミストは言っている。「日本経済の元凶は不良債権である。まず、これを解決しなければならない」と。こうした論調に金融庁は勢いづく。そして、日本の事情がよくわかっているとは思えないアメリカ政府高官まで不良債権処理が日本の課題だと主張する。
大抵のことでは、表面的にかもしれないが、政府を批判するマスコミも、こと不良債権に関しては同じ論調である。いくつかの週刊誌はこの問題にこと寄せて“危ない銀行リスト”で売り上げを伸ばしている。
こうした不良債権元凶論の大合唱のなかでは、大方の国民が同調してしまうのも止むを得ない。そんな中で“3月危機”が囁かれた。結果として何も起きなかったが、この国では“危機”といえば不良債権の事という理解が定着している。
本稿では、まず、こうした“定説”に疑問を呈したい。そして、少し長期的に考えるとこの国の危機はもっと深いところにあるのではないかという危惧を表明したい。では、どうするのだということになるが、そこで協同組合ができること、役割を示した。もっとも、最初に断っておかねばならないことだが、日本の本当の危機を克服する全体的な処方箋は未だ書かれていない。ただ、利潤原理で動く企業とは異なる協同組合が一定の役割は果たせるし、その時期が来ていると主張したい。
〈不良債権問題の構図〉
不良債権の何が問題なのか。ここでは金融機関が抱える不良債権を問題にするのだが、それは返済がおぼつかない貸出債権のことである。簡単に言えば、貸し金が返って来ないのだが、問題は三つある。@金融機関は返済で戻って来た資金で新たな貸出をするという循環機構を持っているが、その機能に支障が生ずる。いわば金がまわらなくなる。A借金が返せないような情況にある企業(ここでは貸出先を企業に限定しておく)は経営の情況も良くないはずだが、そういう企業が生き延びるためには追加の資金が必要である。だから、資金が戻らないばかりでなく、さらに資金を貸出さねばならなくなる(いわゆる追い貸し)。しかし、ここで一言しておかねばならないが、追い貸しが悪いと決まったわけではない。企業が再び元気を取り戻せばそれは意味のあることになる。もちろん、貸す側の見極めが重要なのだが、これは別に論じよう。
“追い貸し”という表現も未定義だが、最近の学会報告では「過剰債務の存在」「将来の業績見通しが赤字」などの状況にある企業の融資を示している。そして典型的な追い貸しは、「潜在的に存在する不良債権が顕在化してしまうのを恐れる」ことから生じるという。(日本金融学会春季大会における、大村敬一(早稲田大学)、佐々木百合(明治学院大学)の報告による)。B貸した資金が返って来ないような状況では金利の支払も滞る可能性が高い。金利は金融機関の主要な収入であるから、そうなれば収益悪化の要因となる。もっとも、金利だけは払ってもらうためにその分を追い貸しするなどという裏技もあるが、それは問題の先延ばしにすぎない。
以上の三つを総合していくと、不良債権によって金融機関は新たな貸し出しができなくなり、かつ自己の収益も悪化するということになる。論者の多くは“新たな貸出”のところに注釈をつけ強調する。それはいわゆる次の時代をリードするベンチャー企業であると。露骨な言い方をすれば、成長力のなくなった企業にかかわっているので新しい企業のめんどうをみれない。これでは“構造改革”が進まないと。だから不良債権は悪の元凶なのだと主張する。
しかし、ここでベンチャー企業を登場させるのはおかしい。ベンチャー企業(定義はなく曖昧だが)には金融機関は融資しない。担保が充分でないしリスクが高すぎるからだ。金融機関が融資という型で資金供給をしないので、ここにベンチャーキャピタルという独特の機関が登場するのである。論者がここで言うベンチャー企業は、実はかなり出来上がった企業をイメージしている。設立間もない企業ではなく、成長性が既に示された企業である。ということになると通説の綻びがもうひとつ見えてくる。実はそういう“ベンチャー企業”はそんなに多くないのである。不況がこの傾向を加速する。ベンチャーといっても景気の良し悪しには左右される。数が多くないだけでなく、必要とされる資金量も多くない。一度に億単位の資金を必要とするようになったらベンチャーは卒業している。
〈三つの源泉〉
金融機関はよく経済社会の心臓にたとえられる。血液を動脈に送り出す。経済社会に必要な血液を送る。それができるのは静脈から血液が入ってくるからだが、それがここでの問題である。資金の静脈は実は三本ある。@返済資金。これは先程から述べているものであり、通説を支持する論者が強調する(強調しすぎる)ものである。確かに返済されなければ、その分は新たに貸せない。これは明らかだから不良債権が問題であることには異論はない。しかし、強調しなければならないのは静脈は三本あるということだ。もし、残りの二本がしっかり機能していれば、最初の一本の血栓症はかなり緩和される。では残りの二本とは何か。ひとつは“新規預金”である。
新規預金という概念は少し難しい。全金融機関レベル(マクロレベル)で考えると、それはGDPの増大した分だけしか生じない。だから、マイナス成長下では生じない。しかし、個々の金融機関で考えればいつでも生じる。
ペイオフ解禁が“3月危機説”とともに騒々しく取り上げられたため、中小の金融機関からはかなりの預金が流出した。つまり、ある金融機関には第二の静脈の血流はマイナスだった。しかし、どこかがマイナスならどこかがプラスになる。そうでなければいわゆるタンス預金だが、それは一部にすぎない。どこに流れ込んだかといえば、それは大手の金融機関である。小さな金融機関から大きな金融機関へ預金が移動したことは間違いない。だから新規預金という第二の静脈は大手の金融機関には充分に機能した。しかも、金利がゼロの普通預金という型で流入した。さらに言えば、この預金は原理的には出納預金なのだが今回は定期預金並みの滞留性をもっているのである。言うまでもなく、停留性の高い預金は貸出に適している。
図1は金融機関の業態別預金の動きを示している。ペイオフ解禁が迫るにつれて都市銀行に預金が集中したことは明らかである。また図2は、預金の種類別に残高の動きを見ているが、普通預金が急増している。普通預金はいつ引き出されるか分からないので、貸し出しには不向きというのは一般論であり、現在のように特殊な状況にはあてはまらない。預金の性格を見極め、運用していくのが金融機関の技能のひとつであり、都市銀行がその能力に劣っているはずがない。
もうひとつ、2000年頃からの現象であるが、新規預金を形成したものがある。それは、郵便貯金からの流出分である。(図3参照)これは主に個人預金であるが後に見るように巨額であり、かなりの部分が金融機関に流入したと推定される。そして、この部分も滞留性は高い。もともと個人の貯蓄預金だからである。第二の静脈について以上のように考えると、新規預金が大手金融機関を中心に生じたと推論できる。
さてもうひとつの静脈、それは金融機関が稼ぐ利益金である。よく言われることだが、日本の企業は利益が出てもそれをすぐに株主に配当せずいわゆる内部留保として社内に留める傾向がある。金融機関も例外ではない。そして、金融機関の場合は新たな貸出原資となりうる。表1にみるように、平成13年度の大手13行の業務純益(本業の儲けを示す)は4兆円を超えている。会計上は、これらの利益は過去の不良債権の処理に使い尽くされるが、それはバランスシート上のことで、生み出された利益金が金融機関内に保有されることには変りがない。
〈小括〉
金融機関への資金の還流ルートのそれぞれについて考えてみると、必ずしも金融機関が資金不足に陥っているとは限らないことがわかる。不良債権→返済停滞→新規貸出不能とはならないのである。
本稿の理論的帰結は、主流の論者には受けが悪いであろうが、現実をよく観察する人、また実際には金融機関に身をおく人々には支持されるであろう。実際、規模の大きい方のある範囲の金融機関は資金過剰である。彼らのもとには第二、第三の静脈から資金が入り、その割には動脈から出ていかない、つまり貸出が活発ではないのである。この現象がいわゆる貸し渋りであるのか、不況の故の貸出減少なのかは議論のあるところだが、いずれにせよ金融機関の一部は貸出金が戻って来ないので貸せないのではないのである。
大手とは逆に第二の静脈がマイナスの流れになった中小金融機関では“危機”が生じうる。新規に貸せないどころか、既存の貸出先に返済を迫る、いわゆる“貸し剥がし”も生じる。しかし、多くの場合はやむを得ずそうなるのである。責任の多くは、BIS基準という実は根拠の薄弱な物差を押しつけ、やらなくても良いペイオフ解禁を強行した金融当局にある。ペイオフ解禁などというのは、いたずらに国民の不安感を募らせるだけであり、かつ中小の金融機関を“いじめる”措置である。注1
だから3月危機は実は中小金融機関の危機であった。そしてこの危機は、3月が過ぎても潜在している。また、危機の位相が進行する。つまり、中小の金融機関が危機になればそれらと取り引きがある顧客(ほとんどは中小企業)の危機となる。中小企業では無借金などというのは考えられないし、資本市場からの調達など、もとより考えられないからである。そして中小企業の危機はそこで働いている人々の生活の危機である。
ここまで考察を進めてくると、一体なんのために“ペイオフ解禁”を強行したのか。さらになぜ必要以上に“不良債権危機”を強調するのかが少し見えてくる。また実際には大手には生じず、そして中小金融機関だけに生ずることをなぜ全般的危機のように言うのかという新たな疑問が湧いてくる。この疑問を辿っていくと金融当局の意図とそれを支える根本哲学にいき当る。その哲学を吟味し批判することこそ“対案づくり”の第一歩となる。
〈不良債権問題の一側面〉
不良債権はもちろん問題であるには違いないが過大に扱われている。金融機関は融資の実行に際してもちろん慎重であるべきだが、企業の行く末を読み切れるものではない。だからこそ、貸倒引当金の積立も認められているのである。金融業が金融仲介業である限り絶対安全はありえない。
現在の不良債権が重傷になったのは、景気が長期に低迷したこと、著しい資産デフレで担保価値が大きく目減りしたこと、ゼネコンや大手スーパーなどの処理の先送りが限界に達したことによる。だから、これは積年の傷であり、持病化していたのである。それは治さなければならないが、2〜3年でやる必要もない。ある程度の時間をかけて、不良債権が生み出されたのと同じような時間を目安にして取り組めばよい。
金融機関というのは、考えようによっては危うい構造を持っている。それはかなり原理的なものである。つまり、預かるといって預金者から受け取った資金を、返せといってもすぐには返せない第三者に用立ててしまうのである。これが金融機関の利益の源泉である。だから利益(率)の高い金融機関程、実は手元に資金はないのである。金融機関に資金がないなどというのは常識はずれのようにも聞こえるが、これは事実で、預金者もそれを知っており当然だと思っているのである。金融機関が預金者の資金を貸出していなければ、預金に利息はつかないのである。預金者は金融機関のこの事実を承知している。
預金者の承知していることがもうひとつある。それは、預金者の多くが一度に預金を引き出しに行かない限り金融機関は安泰だという事実である。この第二の認識は第一の認識とセットになっている。預金者と金融機関の間にはいわば暗黙の合意があるのだが、これはいくつかの要素によって支えられている。ひとつは内面的要素というべきものだ。その中心は当該金融機関の業績である。業績を反映するのは配当であるから、金融機関は無配や減配を極端に恐れる。平成13年度のようにほとんどの金融機関が赤字決算であるにもかかわらず配当を割けるのは、“暗黙の合意”の前提を崩すことがこわいからである。
外面的要素とは、金融機関の店舗が立派であること、立地がよいこと、職員の身なりがよいこと、顧客への対応がよいこと、役員が高給であること、重役室に高価な絵画がかかっている等、まさに数えればキリがない。私達が金融機関のイメージをつくり出すのに役に立ちそうなすべての外観がそうである。内面、外面の両要素からいわば“共同幻想”が作られる。正直な子供が王様は裸だといわなければよいのである。
ところが1996年に事件が起きた。いくつかの金融機関の様子はどうみてもおかしい。裸かもしれないと人々に思わせるような情況が生じた。それは、東京と大阪の三つの信用組合が破綻した事件である。これらは、いずれも放漫経営の結果であり、組合原則を逸脱して自滅したケースであったが、業界内の大手であったために影響は少なくなかった。日本の戦後としては始めて“取り付け”騒動に発展する。この事件をきっかけに日本の神話(金融機関は潰れない)は崩れ始め、同時に共同幻想は消えたのであった。
金融当局の方針はこの頃から変化する。すべてを守るという大方針は棄てられ、多少の犠牲を出しても本体は守るという方向にである。事実、このあと現時点に至るまで“魔女狩”は続いている。
政策当局の理想は、一度、崩れた神話の立て直しである。そのためには、質の悪いものはすべて消滅し、良いものだけが残ったという形式をつくらねばならない。全体に傷ついている中から特にひどいものを抜き出し、市場原理の名の下に消滅させる(市場からの退出を迫るという表現が使われる)。その際に、何を基準に選別するか、そこで使われたのが不良債権問題でありBIS基準である。しかし、ここで強調しなければならないのは、個々に傷の程度の違いはあっても、実は日本の金融制度が全体的危機であったということだ。金融世界が国内に限られていれば、あまり気にもならなかったのだろうが、国際競争を展開する上では業界に傷があることは大きなハンディだ。図4は格付け機関が示す世界の銀行の格付だが、日本の銀行のそれは1986年のAAプラスから2002年3月にはBBBプラスまで実に6段階も下がり、他の先進国との格差は大きくなっている。格付は調達金利にそのまま反映するから、この水準では日本の銀行は国際金融市場で闘えない。だから早く全快宣言を出したいのである。逆の言い方をすれば、大手金融機関の国際競争力の回復と維持のために、中小金融機関は再編を急がされ強制されるのである。もっとも、金融当局の言い分は、これこそ国益であり中小金融機関を含めて全体の利益なのだということになる。しかし、こうした主張には、日本の資本主義の構造が階層をなしていること、つまり大企業から小企業、それに対応して金融機関も大手から中小へと層をなして編成されている事実を無視している。そして、こうした少し考えればわかることが無視されるのは、論者達が市場原理万能の思想に著しく傾斜しているからである。彼らは、市場という選別機構にかければ強く美しいものだけが残ると考えているのだろう。しかし、彼らの言う劣ったもの、汚れたものを排除した結果が史上最高の倒産であり失業であり、負の集大成としての長期不況なのではあるまいか。
金融サービスのすべてが市場原理ではカバーしきれないことを1990年には政策当局自体が認めていたのである。当時の金融制度調査会は、地域金融機関を「一定の地域を主たる営業基盤として、主として地域の住民、地元企業及び地方公共団体などに対して金融サービスを提供する機関」と定義し、その中に協同組織金融機関を含めた上で、これらの業務が経済合理性だけでは行えないことを認めていた。(金融制度調査会金融制度第一委員会中間報告『地域金融のあり方について』 1990年7月)しかし、1996年の事件をきっかけに政策当局はいわゆるオーバーバンキング論(金融機関の数が多すぎるという主張)に傾斜した。そして、この風潮が小泉政権の下での“改革”と共鳴し強力な流れになったのである。しかし、大きな銀行がメガバンク化すればする程、地域金融のスキ間は大きくなるのである。中小企業が国の経済の基礎であるなら、それらのケアをする機関の必要性は高まっている。もちろん不良な機関を生かすことは合理的ではないが、“数を減らす“という単純な論理を振り回すのも危険である。
〈真の経済的危機〉
不良債権問題は金融機関の一大問題ではあるが、反面、不可抗力的現象でもあり、いつでもある問題である。それを、“危機”にしてしまうのは以上のような意図があるからだ。
さて、不良債権がさ程の問題ではないとすれば、日本の経済問題とは何であろうか。
ひとつは財政危機である。これを短期的に解決しようとするなら、爆発的なインフレーションか、平成の徳政令(借金の棒引き)しかない。前者については、調整インフレ論などという社会主義・計画経済論者も思いつかないような案も出はじめているが、ともかく方法論的に問題が多い。注2 徳政令についても、民間レベルでは大手ゼネコンに対する銀行の債権放棄として現実化している。日本の場合、国債の持ち手の多くが国民であるから“徳政令”もありうるという超楽観論もある。しかし、財政危機対策で最も現実的なのは現状維持という消極的手段である。満期が到来したものはそっくり借り換えるのだから低金利は維持されねばならない。この方法は、国民が引き続き国債を買ってくれることが前提だから、かつてのロクイチ国債(1978年に公定歩合が引き上げられ表面金利6.1%の国債価格が暴落した)のようなことがあってはならない。国債の価格維持という観点からも、利払いの負担という観点からも金利が上昇するのは困る。こう考えると、金融の量的緩和という貸出促進策としては意味のない方策に金融当局がこだわる理由がみえてくる。しかし、同時にこうした方法の限界もみえてくる。格付機関は日本国債の格付を下げはじめているし、円安も数年の傾向として進んでいる。特に後者は、輸出促進による需要増につながるため現況下では歓迎されている。また、円安から輸入物価の上昇を経て、思わぬ経路でインフレーションへの道が開かれるかもしれない。しかしそうなった際には“調整”はできないし、インフレーションのターゲットも吹き飛ぶことになる。外国を日本政府は“調整”できないからである。
日本経済の第二番目の問題は日本の生産性が低下し国際競争力が落ちていることである。
スイスのIMDという機関の発表によれば日本の国際競争力は1991年に第1位であったものが10年を経た2001年には26位にまで低下した。(この数年の順位は1999年14位、2000年21位)つい最近、2002年の順位が新聞紙上に発表されたがこんどは30位であり、凋落傾向は止まらない(表2参照)。アジアの中でも台湾、マレーシア、韓国に遅れをとっている。こうした傾向の原因は未だ分析されていないが、ひとつには日本の労働生産性の伸び率が低いことがあげられる。技術大国ニッポンも、優秀な日本株式会社も昔の話になりつつある。この数年、日本にもIT革命が必要だという主張が聞かれるが、それはアメリカの生産性がITの首尾よい導入で上昇しているという観測があるからである。注3
大企業の世界だけ見ても日本の後退は明らかである。1995年には売上高で見た世界のトップテン企業に日本から6社も入っていた。しかも上位3社を日本の商社が独占していた。2000年には2社、しかも第9位に三菱商事が第10位にトヨタ自動車が入っているのみである。
日本資本主義の劣化は明らかである。そしてこの原因が不良債権問題だけにあるのではないことも明らかである。全体的な処方箋がないために不良債権だけが強調されている。資本主義が劣化することと干渉し合う振り子のように進行する病気がある。それは経済の寄生性である。寄生性は資本主義の成熟現象とも考えられるが次のような傾向を指す。
資本主義経済が発展・成熟してくると、主要な経済主体が自ら創造的(価値を創り出す)な活動をしなくなり、残余の創造的な部分に吸着して利益を得るようになる。例を挙げれば、大企業が下請けの中小企業に寄生する、官僚制度が民間資本に寄生する等々で、大企業病とか大組織病とかいわれているものは寄生性が進行していることのひとつの表現である。こうした傾向を、かのレーニンは資本主義の限界を示すものとして、またシュムペータは寄生性の進行に対抗するものとしてイノベーションという概念を示した。
不良債権問題の誤った取り扱いを続けているうちにある現象が生じた。それは、不良債権処理を強行すると不良債権が増えるという悪循環だ。そこで主流派内にさえ反論が生じた。それは、不良債権処理の前提としデフレ対策をまずやるべきだという議論だが、どのようなデフレ対策があるべきかについては示されていない。インフレーションを意図的に発生させようという議論もあるが、さすがに日本銀行は同意していない。インフレーションをコントロールできる(発生させ抑制する)と考えるところが資本主義への無理解をさらけ出している。
第三の問題は、これまでの諸問題と違って、緊急を要するものである。それは雇用問題である。日本の失業率はこの数年、悪化の一途をたどっている。先進国中の雇用の優等生といわれたのはもはや昔のことである。アメリカの失業率はテロ事件で一時的に高まったが、日米逆転は傾向的である。(図5参照)失業率という量的指標だけでなく質的にも悪化している。ひとつは若年失業の増加であるが(15―24歳の失業率は2002年で9、2%である)、これには未就業者(学校を卒業したものの就職していない人々)の大群が加わる。2002年の4月に発表された数字では高校生未就業率は20%近くになっている。大学生についてはまだ集計が済んでいないが、女子短大などが苦戦している様子は伝わってくる。もうひとつの質的問題は長期失業である。一年以上失業している人が増加する一方で、短時間雇用の比率は傾向的に高まっている(1991年で16.3%が2000年には20.0%)。日本の労働者の約2割がいわゆるパート労働。女性だけの比率は36.1%になる。近頃、企業業績が改善したことが伝えられるが、その原因が売上が伸長したことによるのではなく、常勤をパートに置き換えた人件費を中心にしたコスト削減であることは以上の数字からも明らかである。
雇用情態について特筆すべきは、従業員500人以上の企業が2000年頃から雇用を減らしている一方、30人〜499人の中堅企業が増やしていること、1人〜29人はややプラスで推移していることである。大企業で雇用リストラが行われ、中堅・中小企業で雇用の増加があるという現実は1970年代にアメリカで、1980年代にイギリスで確認された事実であるが、これが今日の日本で現象している。注4
失業というのは、働く能力と意志がありながら働く場が与えられないことであり、社会の基本的矛盾のひとつである。社会主義者の予想に反して資本主義が体制として保ったのは失業問題にそれなりに対応したからである。その対応策の基本は経済成長であり、それが新産業によって導かれたことである。しかし、現在の状況は、これまで資本主義をリードしてきた大企業が大量雇用リストラに励み、そのツケを中小企業が埋めている。注5
イギリスでは一時期、雇用を生み出す主流が1人〜20人未満の企業、特に自営業であった。このため、自営業の促進、いわゆる創業支援運動が展開した。しかし、自営業は失敗する率も高く、雇用創出効果は不安定であった。注6 そこで、雇用問題の解決の期待は、技術力などの裏打ちがあり成長が見込める企業、すなわち日本流に言うところのベンチャー企業に集まった。注7
日本でも同じような現象が起きている。しかし、そのような範疇でとらえられる企業は実は多くない。ということはベンチャー企業で雇用問題を解決するという方策は限定的である。やはり、既存中小企業に期待せざるを得ないのであり、彼らの支援者としての中小金融機関の活動に期待が集まる。貸し渋りなどはまさに逆行であり、金融機関にそうせざるを得ないように追い込むことも政策的には明らかに誤りである。
<協同組織金融機関の将来戦略>
相互扶助・互恵を原理とする協同組織が金融事業をひとつの活動分野とすることは理にかなっている。だから、協同組合の理念は資本主義が興隆する以前からある。しかし、それが発展するのは資本主義の確立期である。いわゆる本源的蓄積といわれた時期に、資本の暴力によって社会的弱者が生み出される。彼らの自らの組織として協同組合は生まれ、やがて社会の安定装置のひとつとしても認知された。
現在の状況は弱者を積極的に生みだし、かつそれを放置するという点では資本主義の発生期によく似ている。歴史上、おそらく三度目の“資本の暴風”が吹き荒れた時代であろう(二度目は各国で巨大資本が形成される20世紀初頭)。実像以上にふくらまされた不良債権問題が建物を破壊する鉄球のように次々と中小金融機関を襲っている。BIS基準というアメリカ製の物差しも同様に破壊のための道具として使用されている。この基準の適用については協同組織金融機関の側から正当な反論があるにもかかわらず無視されている。
注8 ペイオフ解禁も強行された。中小金融機関の苦境→中小企業の苦境→そこに働く人々の苦境→失業増。所得減→消費不況、という悪循環は果たして“当然の痛み”として放置されてよいのだろうか。
逆の見方をすれば、現在のような状況こそ協同組織の存在意義はあるはずである。そうでないのはどうしてか。それは1996年以来、少なくない信用組合が乱脈経営で自滅し、そのことが業界全体の信用を落としたからである。必要な時期に、信用できないものの烙印を押されてしまっている。
では真に必要とされる健全な協同組合は、この第三期の資本の暴風雨にいかに対処するべきであろうか。ありきたりのようだが、次の4つのステップが考えられるであろう。
@ 個々の機関の強化
A 連合体の強化
B 金融界の他の機関との連携
C 社会的支持の獲得
@ 各組合は、組合員と職員から成る。構成する個人の意識の向上。組織で動くのだから、
組織の見直し。協同組合にふさわしい、かつ利潤原理の組織に劣らない効率的組織が求められる。乱脈が生じないような内部の監視機構も必要だ。もちろん重装備である必要はないが、社会の信用を取り戻すためには必要。
A 共倒れは避けなければならないが、連合会の強化は必要。ただし連合会に人材が集ま
りすぎないように、また、屋上に層を重ねることがないようにするべきだろう。強風・逆風の中で立ち続けるためには個々の組織がしっかりと手をつなぐことは必要だし、場合によっては統合もひとつの選択肢である。金融界では、依然として、組織が大きいのは安心で良いという見方がある。実はそうでもないのだが、既成概念に敢えて抵抗せず単一の日本信用組合を形成することも考えうる。
B 金融界には改革の嵐のなかで協同組織機関と同様な目にあわされているところが少
なくない。他の中小金融機関との連携は必要だ。また政府系金融機関との協調の可能性を探るべきだろう。考えようによっては、政府系金融機関も“行革”の嵐の前に立っている。もちろん、各機関とも前述の@とAの自己改革を経ての連携であり、決して守旧派・抵抗勢力の野合であってはならない。嵐の前に立たされている点ではかの郵便貯金も同様である。この巨大な勢力と、どう住み分けるか、そして上手に分業するかは知恵の出しどころである。それが首尾よく進めば、地域経済に貢献することは間違いない。
C 金融界から社会全体に視野を広げたとき、まず必要なのは他の協同組合との連携であ
る。協同組合の代表的な存在である農業協同組合は自らの金融機能を持っているが、やはり強風の前に立たされている。
地域の様々な団体(商工会、町内会、各種クラブ)に、“小さな店舗でも大きな信頼”があることを訴えていかねばならない。また地域のイベントに参加することも社会の認知を得る方法であるが、その際は強制にならないように、また役員の自己満足に終わらないように配慮する必要がある。他にも、役所との情報交換、研究者の支持を集めること等、存在を知らしめる広報宣伝も有効である。
<新たな分野>
信用組合の預貸率をみると、この数年傾向的に低下している(図6)。預金も貸出もともに減少しているが貸出の減少の方が相対的に大きい。おそらく顧客が少なくなっているのである。不況の影響もあるだろうし、他の金融機関に奪われたケースもあるだろう。このような状況下では、前段で述べたような“体力強化”だけではうまくいかない。新たなビジネスの方向を探らねばならない。新しい顧客と新しいビジネスを展開しなければならないが、その際には金融業にまつわる伝統的な観念を少し拡げて考えた方がよいだろう。ここでは対極的なふたつの分野を考えておく。ひとつは救済金融であり、もうひとつはベンチャー企業金融である。
各論にいくまえに総論的なことを述べておこう。過去の教訓ということから言えば、大手の銀行のすることを追いかけていっても展望はない。選択肢を整理したものが下の図である。やはり追求すべきは地域振興である。
この数年、倒産に関する手続きが簡略化され、企業の再生は以前に比べれば容易になってきている。これに目をつけたのが、企業再生ビジネスである。現状では、あまり評判の良くない勢力も入り込んでいるが、ビジネス・チャンスのある分野であることは間違いない。しかし、現状は、中規模以上の企業にターゲットがある。中小企業、ましてや零細企業については、最も倒産の多い分野であるにもかかわらず放置されている。だが、この分野にも再生すべき企業資源があるはずである。
企業再生ビジネスの主なプレーヤーは、いまのところ大手銀行(政府系の一部を含めて)であるが、彼らの手間賃と資金量からみると中小企業は対象が小さすぎて採算に乗らない。
だから中小企業の再生ビジネスは現在、空白地帯である。もちろん、ここに参入するには事前の研究とノウハウの蓄積が必要である。しかし、新しい事を始めようとすればいつもそうである。
もうひとつがベンチャー企業金融である。この分野については別のところに書いたので詳しく述べないが、まだ参入の余地はありそうだ。注9
ベンチャー企業支援はいまのところ国策である。日本経済の諸問題を一緒に解決できそうだという期待が寄せられている。現実には、ベンチャー企業への過大な期待もあり、支援等そのものに限界もある。しかし、追い風であり、それを利用することはひとつの戦術である。長い間、逆風にさらされてきた組織としては考えてみる価値はある。
ベンチャー企業といってもいくつかのタイプがある。@大企業からの分社化、Aハイテク型(大学発ベンチャーの多くはこのタイプ)、B既存中小企業の新分野進出、C既存ローテク企業の経営革新(主にサービス、小売等の分野)、D独立開業。
以上のうちのBCDは充分対象になりうる。地域企業の情報を持っていなければリスクは軽減できないからである。ベンチャー企業支援といっても資金提供だけでなく様々な経営支援が求められる。積極的に関与し企業価値を高めていくのだが、そのためにも地域への密着性は必要であり、それを持っている協同組織機関にはチャンスがある。
ベンチャー企業というと“明日のソニー”というようなイメージで語られることが多い。もしそうだとすれば、中小企業研究者のよくする批判は当たっている。つまり、“ベンチャー企業支援はほんの一部の企業を対象にする反面、大方の中小企業を見捨てようとしている”という批判である。しかし、こうした批判は今日のベンチャー運動の一面しか見ていないのである。
グローバル競争の現代にあって、真に必要なのは大集団をなす中小企業の全体的な底上げである。ベンチャー企業はいわば革新モデルなのだ。日本の中小企業の多くが、このままの状態で生き残れるということはないだろう。なんかの点で(技術、経営、財務)上昇する必要があるが、中小企業群は大きすぎて全体が一度に動くのは難しい。
図7は、ベンチャー企業と中小企業一般との位置関係を描いたものだが、この10年でかなり変化している。ベンチャー企業といえば当初はハイテクであったが、現在ではかなり広い概念でとらえるべきだ。位置もだいぶ下方に動き、中小企業の自己変革で手の届きそうなところまできている。だからモデルとなりうるのである。これから必要なことは、こうしたモデルを目ざして動き出す“普通”の中小企業を支援することであり、それは立派な日本のベンチャー運動なのである。そして、そこに協同組織金融機関の新たな役割がある。
21世紀である。よく見渡せば、新天地もありそうだし、追い風も吹いている。必要なのは、新しい環境に対応する知力と体力、そして少しの勇気だろう。
注1)ぺイオフ解禁への批判については次の論文を参照されたい。
濱田康行「3月危機の実像」
『社団法人北海道雇用経済研究機構Heero』2002年3月No.10
注2)『北のゆうせい』2001年11月号 北海道郵政局
注3)篠崎 彰彦「IT革命の日本経済に及ぼす影響」
『ESP』2000年5月号 No.337
注4) D.L.Birch, Jop Creation in America, The Free Press, London, New York, 1987
注5)濱田 康行「中小企業ブームのゆくえ」
『商工金融』1990年12月号pp.3−21,40巻12号
注6)Charles Brown, James Hamilton, James Medoff, 1990,Employers Large
and Small
注7)これを反映して1990年代の中頃から、次のようなベンチャー支援立法が相次いだ。
論者によっては、目下の情況はベンチャー企業ブームではなく、単なる支援政策ブームだというのである。