1903(明治36)年にヌプルペッ(登別)で生まれた知里幸恵は、来年、生誕100年を迎える。道立文学館が、「大自然に抱擁されて・・・知里幸恵『アイヌ神謡集』の世界へ」と題した特別展示をこの時期に行ったことは、その意味でも画期的な試みといえよう。『アイヌ神謡集』1冊を私たちに残し、わずか19歳で世を去った幸恵。その序文や、細かいペン字でびっしりと小さなノートに書き綴られた日記、巻紙に達筆な筆でしたためられた長文の手紙は、同じように早世した金子みすずや中原中也が残した詩のように、まさに若者の文学であるともいえる。特別展の会場に若い人たちの姿が多いのは、いわれない差別に苦しみながら、それを乗り越えて自己実現をなしとげた彼女のひたむきさが、同世代の若者の共感をよんでいるためであろう。
わずか6歳で親元を離れ、旭川にいる叔母、金成マツと、祖母モナシノウクのもとに預けられた幸恵は、まず幼くして両親から引き離される悲しみを体験する。小学校4年生のときの見事な習字から、小学校での成績表、そして旭川女子職業学校への入学と、学校での幸恵は優等生そのものであった。しかし優等生であればあるだけ蔑視やねたみは強く、またそれから身を守るために、ほんとうの自己を隠すという幸恵の不幸が始まる。彼女がそれを日記のなかでさらけだし、対決するのは、東京にいる金田一京助のもとで暮らした最後の5ヶ月においてであった。
15歳の夏、先駆的なアイヌ語研究者であった金田一と出会ったことが、幸恵のその後の人生を決定したといえる。展示では金田一からのハガキが年代順に並べられ、祖母たちから聞かされてきたユカラを書きとめることの意義に、幸恵が目覚めていく過程をたどることができる。アイヌ民族への露骨な同化政策が続くなか、帝国大学から派遣された研究者であった金田一には、アイヌ語研究のためにアイヌを利用しただけ、という厳しい批判もある。しかし彼が幸恵や両親にあてたおびただしい手紙や、幸恵の日記、手紙をみるかぎり、この人の心の根底にある善意を疑うことは難しいように思う。善意だけで、すべてが許されるわけではないとしても。
今回の展示では、幸恵とキリスト教との結びつきの強さが新発見の資料で補強されている。英語と聖書をもっと知りたいという願い、新しい世界で貪欲に知識を吸収し、自己を確立したいという切望が、死を覚悟のうえでの上京に幸恵を駆り立てたのである。しかし、5ヶ月の滞在ののちに幸恵が見出したのは、あくまでもアイヌ民族のひとりとして立つという強烈な自覚であった。
「日本は単一民族国家」という大臣の発言を多くの人々は批判する。しかし、いっぽうではその同じ人々が、漢字化された日本語地名だけを正当なものとし、もとからあるアイヌ語地名は過去の地名として、日本語地名の由来にだけ使うのを見ても平然としているという現実がある。どちらの言語の地名も同等に併記している複数民族国家(アイルランド、フィンランドほか)との違いははなはだしい。アイヌ語やアイヌ文化を専門とする人々までが、現実にあるそのような不平等に異議すら唱えないとすれば、研究者はいまだにアイヌをたんに研究の対象にしているだけと批判されても仕方ないであろう。
今回の展示の欠点をいえば、肝心の『アイヌ神謡集』を声で聴けないことである。幸恵が命をかけて残してくれたこのすばらしい文学を、アイヌ語で読み、自分でも語れるような教育を日本中の誰もが受けられるようにすること。それが幸恵の果たせなかった夢を実現する第一歩ではないか。
「その昔此の広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました。」
で始まる『アイヌ神謡集』の序文は、決して声高にではないが、その自由の天地であった北海道の自然とアイヌ文化を破壊したのが他ならぬ私たちであることを強烈に断罪してもいるのである。