一〇月二七日に、衆参合わせて七選挙区で補欠選挙が行なわれ、与党が圧勝し、鳩山新執行部の民主党はかろうじて完封負けを免れるという惨敗であった。この補欠選挙は、日本の政党政治がほとんど進歩していないことを物語っていたように感じた。
九月の内閣改造以来、日本の政治は迷走を続けている。国民の目が北朝鮮の拉致事件に注がれている間に、政治、経済の危機は深刻化する一方である。小泉首相が自民党内の常識を無視して内閣改造を行なったときには、私は、この内閣は不良債権処理をはじめとする懸案に本格的に取り組むかもしれないという期待を持った。それは、小泉首相がこの内閣の課題を明確に示した上で、自らの判断によって閣僚の人選を行い、閣僚に対しても取り組むべき政策テーマを課したという組閣の仮定に基づく判断であった。今回の内閣改造は、内閣の政策的求心力を高め、派閥や当選回数による人事という内閣の機能不全をもたらした要因を排除したという点で、画期的なものであった。その点で、首相公選論者であったはずの小泉首相が、議院内閣制における本来の首相のあり方を体現していると私は考えたのである。
しかし、与党との関係においては、小泉氏は本来の首相のあり方を確立するには至っていない。政策を示して閣僚人事を行なった所まではよいが、金融問題を中心に厄介な政策の調整を閣僚に丸投げしたという印象を与えてしまった。しかも、丸投げした相手が竹中平蔵氏という民間人であり、つい数ヶ月前には無理やり「景気底入れ」を宣言したという経済に関して見識を持っているとは思えない人物であった。不良債権処理に関するハードランディング路線が地域におけるまともな中小企業への死刑宣告につながることを恐れた「抵抗勢力」の政治家が、竹中大臣への批判を強めるのは当然の帰結であった。
不良債権処理は竹中氏の手には負えない難題である。プロジェクトチームを作るのならば、首相直属のチームを作り、小泉首相自身が分かりやすく具体的な言葉で金融政策の基本的枠組みを語り、政策決定をリードしなければうまくいくはずはない。この点で、小泉首相が与党に対してリーダーシップを発揮しようとしないことは奇異でさえある。
選挙で国民は何を選べばよいのか
政策をめぐる内閣と与党の対立の中で、今回の補欠選挙は戦われた。国民が最も関心(あるいは寒心)と不安を持っている経済政策の基本的方向性に関して選挙戦を通して議論が深められたとは到底言えない。そもそも候補者の立て方からして、政党、政治家は選挙民を愚弄していた。山形や鳥取では、自民党側が候補者擁立に手間取り、以前の国政選挙では自民党と対決していた人物を推薦した。
二年前の総選挙の際、たまたま鳥取に行く機会があり、今回自民党推薦で当選した候補者がその時自民党公認候補を相手に戦った際のパンフレットを読んだ。自民党に悪態をつくことにかけては人後に落ちない私も感心するほど見事な自民党批判であった。しょせん政党というものは、自民党にせよ野党にせよ、野心家が国会議員になるためにその時の風向き次第で使い分ける道具でしかない。いまさらこんなことを言うのは、日本政治というものを知らない素人の正論ではあろう。しかし、こんなことをしているから、日本はいつまでたっても政治の力で社会や経済の問題を解決できないのである。
選挙戦では小泉首相が自民党候補の応援のために駆け回った。それは自民党の議席を増やすためであって、首相の唱える構造改革に対する支持を集めるためではない。個々の候補者は、とりわけ農村部の選挙区において、構造改革とは正反対の財政出動による景気回復、公共事業の推進などを訴えた。たとえば選挙民が小泉流構造改革を進めたいと考えるならば、自民党の候補に投票することがそのためになるのか、それに逆行するのか、分からない。今回の補欠選挙が低投票率に終わった原因の一端は、そうした分かりにくさにあった。
小泉首相には、もはや「改革に抵抗するなら自民党をぶっ壊す」と叫んだ頃の魅力はない。国会議員になるためならば何でもするという機会主義者にむざむざ力を貸すような小泉首相は見たくないというのが心ある有権者の感覚であろう。また、総裁である小泉首相が自民党の機会主義を容認するならば、それだけ改革を自ら遠ざけることになるのである。
選挙とは、単に代表者を選ぶ機会に止まらず、国民自身が国政の基本的方向付けについて覚悟を決めて選択するための機会であるはずだ。首相の側で覚悟が定まっていないならば、国民の側も腹をくくることなどできるはずはない。首相が構想していた改革が与党議員の反対によって頓挫しているという現実がある。この隘路を打開するには、国民の世論をてこにするしかない。自民党の公認や推薦は、総裁である小泉首相の名前の下に与えられる。だとすれば、自民党の公認や推薦をもらうことは小泉改革を支えることを意味するはずである。基本的な政策について候補者を縛ることは、総裁の独裁ではなく、政党政治に当然必要なけじめである。
同じことは野党にも当てはまる。鳩山氏が民主党代表選挙で勝利し、中野寛成氏を幹事長に起用した時点で、この補欠選挙における民主党の敗北が事実上確定していた。政府与党が当面の経済政策をめぐってこれほど混乱を露呈している時に、明確な対抗ビジョンを打ち出せない野党など必要ないというのが、今回の補欠選挙に現れた民意である。できたばかりの鳩山執行部には申し訳ないが、国民がこれほどまでに民主党を無視、黙殺しているのである。早急にリーダーシップの入れ替えを図るべきである。
政党政治のハードランディングというシナリオ
私は経済に関しては素人だが、今の日本経済が本当の危機にあることくらいは分かる。本来であれば、解散、総選挙を断行して、経済危機の打開策について国民の判断を仰ぐべき状況である。各政党は、どのような理念のもとで、どのような政策をとるのか、具体的な選択肢を示すべきである。とはいえ、自民党も民主党も、党として一つの原理、筋道を示しえないところに、日本政治の最大の悩みがある。
不良債権処理に関して、ハードランディング、ソフトランディングという議論がある。素人目には、消防車や救急車をきちんと待機させた上で、ハードランディング路線をとることが望ましいように思える。どの道をとるにしても、内閣と与党でけんかをしているような場合ではない。
私がもっとも恐れるのは、「意見の多様性がわが党の美徳」などと政治家が呑気なことを言いつづけ、政策に関する無責任状態を続けるならば、政党政治そのものがハードランディングするというシナリオである。先日、民主党の石井紘毅代議士が刺殺されるという衝撃的な事件が起こった。思想的背景は不明であるが、政治に対する欲求不満が暴力に結びつくという風潮の表れかもしれない。経済の危機は、政党政治の危機でもある。与野党を問わず、リーダーの責任感が求められる。
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