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的外れの教育改革論議
山口 二郎
 
 

 政界では教育基本法改正論議が盛んである。中央教育審議会は、国や郷土を愛する心や公共への参画を盛り込んだ教育基本法改正の骨子を発表した。一連の議論を聞いていると、教育をだしにして自らの趣味を国民に押し付けようとする政治家のやり口に呆れるばかりである。そもそも現在、一部の子供に見られる荒廃現象は、教育基本法とは無関係である。青少年の犯罪率は敗戦間もない時期が最高で、以後一貫して、ということは教育基本法のもとで低下してきた。最近の凶悪犯罪は、享楽的な消費文化の浸透、就職難と将来展望の欠如、大人への不信感の高まりなど様々な要因が重なり合った結果であろう。いずれにしても、子供の荒廃は大人社会の反映である。

 問題の根源に迫る努力をせずに、手っ取り早く誰か、何かのせいにして答えを出したふりをするという大人の姿勢こそ、本来の教育とは正反対のものである。教育基本法を改正すれば教育がよくなるなどというくだらない議論をする大人に、教育改革を語る資格はない。教育を改革するということは、大人社会を改革することの延長線上で初めて可能になる。現代社会の問題を教育のせいにして、自分たちの責任を認めようとしないようないいかげんな大人の言うことを、子供がまじめに聞くはずはない。教育基本法の改正を通して愛国心だの公共心だのという説教を子供にしようとしている政治家には、今の経済や雇用問題に取り組んで若者に少しでも多くの仕事を提供する方がよほど教育効果は大きいと言いたい。

愛国心と伝統をめぐって

 そもそも教育基本法は、田中耕太郎や南原繁など、どちらかというと保守的な学者による戦後の教育改革の中で、教育勅語に代わって民主国家日本における教育の指針を示すものとして制定されたという経緯がある。南原繁は進歩的知識人の元祖のように思われているが、実は大変なナショナリストであった。明治維新の後に急ごしらえで打ち立てられた忠君愛国や滅私奉公などの「伝統」が結局悲惨な戦争につながったという前提で教育基本法は作られた。この前提を今一八〇度転換する必要はない。

 では、今尊重すべき日本の伝統とは何か、愛国心とは何を意味するのか。基本法にこれらの言葉を書き込むのならばその意味について議論する必要がある。花鳥風月を愛でるという意味で伝統を尊重することには誰も異論はないであろう。他方、近代の日本を振り返ってみれば、太平洋戦争の敗北からバブル崩壊に至るまで、日本人の思考様式の中に悪しき伝統が浮かび上がってくる。それは、希望的観測に流されて冷静な事実認識をすることが苦手であること、個人の信念を貫けない同調主義、失敗に対する無責任などである。こうした伝統を克服することなしには、日本の未来は開けてこないのである。

 自分の生まれ育った地域や国に愛着を持つことは自然なことである。そのことに異を唱える人はよほどのへそ曲がりであろう。しかし、国を愛するということは自国をすべて正当化し、他国を見下すこととは異なるはずである。真の愛国者は、日本の中国大陸侵略や朝鮮半島植民地支配を正当化するのではなく、それらの責任を潔く認めて、謝罪と償いをきちんとするはずである。最近マスメディアを占拠している感のある北朝鮮による拉致事件にしても、拉致事件に関する北朝鮮の責任を追及することは当然としても、植民地支配に関する責任はそれとは別にきちんと取るべきである。

 仮に、自分の愛する地域や国の誇るべき財産が一部の人間の私利私欲のために破壊されたときに、「愛国者」はどう行動すべきだろうか。愛するものを守るために行動することが愛国者の使命である。地域や国を愛するがゆえに、大きな力を持った者と戦うこともあるはずである。基本法改正論者の主張が説得力を持たないのは、伝統や愛国心を強調することによってどのような人間を作り出そうとしているのか、そのイメージが浮かんでこないところに理由がある。伝統を尊重するとか国を愛するといった観念的な徳目が叫ばれるだけで、それが具体的にどのような行動や生き方につながるのかが不明である。これでは、従順な民草を作り出すだけと疑われても仕方がない。逆に、私がここで描いた能動的な愛国者のイメージは、今の教育基本法に言う「平和的な国家および社会の形成者として(中略)自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民」を具体化するものである。各地の環境を守るための市民の運動や長野など地方選挙における民意の発露を見れば、基本法の描く理想は制定後半世紀を経てようやく少しずつ実現し始めたということができる。

公共への参画とは何か

 今回の基本法改正論議の中でのもう一つのキーワードが「公共」である。この議論は、戦後教育の中で個人の権利や自己主張ばかり重視され、公共の利益がおろそかになったという批判に応えるものである。基本法改正に熱心な政治家は、この種の議論を始める前に、ほかならぬ自民党型の利益政治こそが公共の利益をゆがめてきたことを反省すべきである。自民党の長期政権の下で、民主主義は陳情と公共事業、補助金などの利益獲得との交換のシステムとして定着してきた。国民の側は、自分の所属する地域や集団の即物的な欲求を官庁にぶつけ、利益を引き出すことこそ政治だと信じてきた。国民と官庁の間を媒介する政治家も、そうした国民の欲望追求を甘やかしてきた。官僚の省益追求と利益集団の利己主義によって、民主主義は引き裂かれてきたのである。公共の利益という説教をするならば、相手は子供たちではなく、今まで公の金や権限を私物化してきた官僚や族議員である。

 今の日本に権利が過剰だというのは、権利(right)という言葉の意味を誤解した議論である。実は日本人は基本的人権を脅かされることに関してきわめて鈍感である。だからこそ、住基ネットなどというプライバシーを侵害する制度に対しても、反発が沸いてこない。今の日本にあふれかえっているのは、特権(privilege)の主張である。権利とは多数決によっても侵せない人間にとっての不可欠なものであるのに対して、特権とは政策によって付与された利益でしかない。今までの利益政治の仕組みは、政治家と官僚が国民に特権を振りまき、その見返りに支持を得るという交換からなっていた。その反面、特権の氾濫の中で公共の利益が見失われていたのである。ダムや干拓など、一部の官僚、族議員、土建業界の特権を維持するために税金の浪費と環境破壊がまかり通ってきたことなど、その象徴である。

 最近ようやく様々な地域において、地域を愛するがゆえに政治家や官僚の言うことを鵜呑みにせず、公共の利益を自分たちなりに考え、それを実現するために主権者として権利を行使するという動きが出てきた。大規模公共事業や原発を止めるための住民投票は、地域における公共の利益を実現するための試みの一つである。公共の利益を尊重し、公共に参画する市民の動きは、遅すぎたとはいえ、教育基本法の所産である。この点でも、観念的な基本法改正論の矛盾は明らかである。


(週刊ダイヤモンド12月7日号)