デモクラシーかポスト・デモクラシーか
日本の参院選に先立つ今年4−6月、フランスでは大統領選と国民議会選挙が戦われ、極右の支持票を取り込んだ保守のサルコジが勝利した。その背景には、フランス社会に重くのしかかる「没落感覚」からの浮上をより力強く実感させるリーダーへの待望があったという(吉田徹「2007年フランス大統領選挙と下院選挙−集合的没落感覚とポピュリズムの帰趨」『生活経済政策』no.127,2007.8)。
「没落感覚」は、バブル崩壊後十数年を経て今日にいたる日本においても、いまだに消え去らない。2005年の衆院総選挙は、小泉純一郎首相が「郵政民営化」という象徴的な政策一本によって、国民に浮揚感覚を与えた。自民公明の連立与党は一気に衆院の3分の2議席を掌中にしたのである。
ところが安倍晋三政権では、若い首相と「補佐官チーム」の新しい看板が剥がれて二人の農水相をめぐる古い金権的弱点が露呈し、さらには年金記録紛失スキャンダルが国家ガバナンス能力の危機という印象を決定的なものとした。七月の参院選では、与党が敗北して半数を割り、野党民主党が初めて院内第一党となった。
この「逆転劇」をどのように見ればいいのか。日本の新しい保守主義は、ネイション(国民共同体)とステイト(国家機構)とマーケット(市場)を一体強化することに邁進しているが、その三つの要素はまだ糊が合わないかのようにつながらない。
篠原一は、参院選に先立ち、「無痛覚症(アナルゲシア)の克服」に向けて語っている。無痛覚症とは、自分の身体や精神に攻撃を加えられても、痛みを感じなくなっている状態をさす。前回の衆院選では、新自由主義的政策によって痛みをうけたはずの人々が、小泉自民党支持に殺到した。篠原は、「痛みを痛みとして感ずるような社会」を早く回復し、今の政治の流れをただちに切断することを求めていた(篠原一「明日への視角」『生活経済研究』no.121 2007.2)。
これに対し、日本政治の多くの論評は、90年代初の「政治改革」以降、派閥中心の中選挙区制から小選挙区主体の選挙制度への移行、行政改革、党首や官邸の強化、マニフェストの重視によって、日本が普通のデモクラシーに近づいていることを確認しようとしてきた。その期待が正しければ、二大政党制の競合する健全なデモクラシーの時代が訪れていることになる。
これまでは89年、98年のように参院選で自民党が大敗した結果、総裁が「責任をとって」辞任する慣行があったが、今日の政治学者には、第一院のバランスによって政権が交代するのが議院内閣制の標準である以上、第二院の参院選の結果によって首相が代わる必要はないとする意見も強い。実際に、安部首相が首班続投を決め込めば、それは可能となったのである。選挙直後に自らの基本路線は理解されていると述べた首相の弁は驚きをもって伝えられたが、8月に入ると自民党国家戦略本部・国家ビジョン策定委員会は、安倍が提唱する4つのビジョン((1)文化・伝統・自然・歴史を大切にする国、(2)自由と規律の国、(3)イノベーションで新たな成長と繁栄の道を歩む国、(4)世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのあるオープンな国)を具体化するための小委員会体制を立ち上げた。この動向を見る限り、「美しい国、日本」、「戦後レジームからの脱却」という残像は変わっていない。
だが、それでは参院選における有権者の異議申し立てには、何の意味があったのだろう。政治学者は、その意味を明確化するよう問われている。学会というのは、今起こっている生の政治をあまり論じないものだが(その理由は、客観的データや理論が出揃わないからとか、学問は評論ではないからとかである)、今年六月の日本比較政治学会共通論題では、執政の中核、政治の大統領制化といった(それ自体はアカデミックな)観察について、日本政治にひきつけた活発な議論が戦わされた。その背景には、見通しのきかない日本政治の行方への焦慮にも似た関心があったのではないだろうか。
そこで宮本太郎氏の提起により討議された問題は、今の日本政治が前(プレ)デモクラシー、デモクラシー、あるいはポスト・デモクラシー、すなわち「デモクラシー以後」のいずれの転機を迎えているのか、という点であった。
前デモクラシーとは、民主化度がまだ低く、民衆の政治への発言力が抑えられている段階である。それを越えるためには身分・階級・性差別的な制度や言論弾圧を撤廃しなければならなかった。
デモクラシーは、民主化が拡大した段階である。一般的に先進国では、労働運動を含む幅広い運動や団体が政治に参画する機会を得た20世紀半ばがその頂点であった。だが日本の文脈では、伝統的な親分−子分関係や組織埋没文化が、戦後の開発政策・補助金行政を通じて、政官財・選挙民をむすぶ恩顧庇護政治(クライエンテリズム)に変容した。そのためデモクラシーの制度の下でも、それが「半民主主義」として批判されてきたのである。
では、ポスト・デモクラシーとは何であるのか。イギリスの政治学者クラウチは、民主化の歴史が放物線のように再下降している現状を指して、この言葉を用いている。先進国の民主主義が退化している理由、それは「民主主義の形態はいまも完全に有効であり、今日では強化されている面もあるが、政治も政府も、まるで民主主義以前の時代のように特権エリートの管理下へ退歩しつつあること。そして、そのプロセスの重大な帰結として、平等主義の大義の無力さが増していること」(山口二郎監訳『ポスト・デモクラシー』14頁)であるという。
ポスト・デモクラシーの下では、政治改革や情報公開、活発な運動・ロビー活動が発達しているにもかかわらず、民主主義の基盤であるべき「平等」が空洞化されている。政治家はビジネス・リーダーの関心にのみ応答し、それ以外の人々は政治プロセスから疎外されてゆく。そればかりでなく、学校、公共サービス、地域コミュニティから政治活動まで、全ての社会制度が企業をモデルとするよう迫られる。
今回の民主党の「勝利」は、前デモクラシー、デモクラシー、ポスト・デモクラシーのどこに向かっているのか。それは直ちには明らかでない。参院選で民主党は「年金、子育て、農業」を守ることを公約にあげ、大規模農家優遇の政府農政への対案として、全販売農家への個別所得補償を打ち出した。民主党は、「生活」という対抗軸によって政権交代のあるデモクラシーに向かっているというであろう。一方、民主党を批判する者は、財源問題を曖昧にした、古いバラマキ政治(前デモクラシー)への逆戻りであると呼ぶ。またそのいずれでもなく、民主党と自民党は大同小異である、という見方もある。90年代以降の先進国にとってネオリベラル型政策を逸脱する選択肢は存在せず、政党間の競争はそれをいかにうまく運営するか、というガバナンス能力テストにすぎない。こうしたポスト・デモクラシー的な見方からは、今回の選挙は安倍政権がテストで失敗した結果ということになる。
恩顧庇護政治の終焉
このように日本政治はいまだに視界不良である。しかしここで確認しておきたいのは、恩顧庇護政治による前デモクラシーは今や持続不可能である、ということである。そしてそのことは、今起こっている世界的なデモクラシーの変容と無縁ではない。
第二次大戦後の先進諸国の中で、恩顧庇護政治が最も広がっていたのは、イタリア、オーストリア、ベルギー、そして日本である。これらの国々は産業化の後発国であり、ファシズム的な強権体制(または運動)を経験して、戦後はキリスト教民主主義や日本の自由民主党のような「国民政党」が優位となった(戦後ドイツでは例外的に恩顧庇護政治が抑制された)。
恩顧庇護政治は、悪しきパフォーマンスをもたらしてきたのだろうか。見方によっては、必ずしもそうではない。キッチェルトによれば、恩顧庇護は私的な利益誘導(レント・シーキング)を許したが、極端な社会的不平等を生んだわけではない。1980年代には日本、オーストリア、ベルギーは、OECD平均と比べて不平等の度合いが少なかった。また、アングロサクソン的な自由主義型市場経済(株主資本主義)に対して、日本のように協調型といわれる戦後市場経済システムの中では、恩顧庇護関係が長期的な資本・労使関係を支える面もあった。
しかし恩顧庇護政治が強力であった国においても、その急速な後退が見られる。その理由として、@共産主義の崩壊後、イデオロギーや階級間の宥和の役割を果たしてきた「国民政党」の意義が低下した、A恩顧庇護的な選挙動員の費用が膨れ上がった、B恩顧庇護政治の恩恵を受けない都市の中産階級が増えた、C資本のグローバル化や財政赤字が弱い部門・地域の保護を困難にした、などがあげられる。これらの要因で説明が尽くされるわけではないが、恩顧庇護を正当な政治と感じる有権者は減り、マスメディアは隠然と続いていた慣行を掘り起こしてスキャンダル化するようになった。
恩顧庇護政治を維持した諸国では、これまでの"悪くない"パフォーマンスと引き換えに、政治不信、公務員不信が深刻化した。キッチェルトによる表(1)を見れば明らかなように、「恩顧庇護関係の度合い」が最も高いとされるイタリア、それに次ぐオーストリア、日本は、90年代初における「立法府への信頼」がそれぞれ下から2番、3番、1番である。また公務員部門への信頼はそれぞれ下から1番、4番、2番であった。既存政党の得票の減少は多くの国に共通の現象であるが、これらの国々では最も深刻である。
この不信は、ヨーロッパでは、反既成政党(アンチ・パーティー)の感情、ポピュリスト政治家や新右翼の台頭を招いた。オーストリアの自由党、イタリアのベルルスコーニ前首相、ベルギーのフラームス・ベラング(「フラマンの利益」党)などがそうである。日本では、「自民党をぶっこわす」という叫び声が快哉を浴び、右翼新党が生まれる代わりに、既存政党の政治家や論壇、サブカルチャー、インターネットにおいて、歴史修正主義的ナショナリズムがものをいうようになった。
表1 政治と政党への不信
|
恩顧庇護関係の度合い |
立法府への信頼
(1990/91年)
|
公務員部門への信頼
(1990/91年)
|
既存政党の得票率
(1960-69年平均
→2000年)
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イタリア |
5 |
32 |
27 |
-49.6 |
オーストリア |
4 |
41 |
42 |
-36.3 |
日本 |
4 |
29 |
34 |
-38.7 |
ベルギー |
3 |
43 |
43 |
-22.0 |
フランス |
2 |
48 |
49 |
-25.1 |
(西)ドイツ |
2 |
51 |
39 |
-10.1 |
アメリカ |
2 |
46 |
59 |
-4.8(大統領選) |
オランダ |
1 |
52 |
46 |
-4.3 |
スイス |
1 |
データ無し |
データ無し |
-21.5 |
イギリス |
1 |
46 |
44 |
-13.8 |
デンマーク |
0 |
42 |
51 |
-15.6 |
スウェーデン |
0 |
47 |
44 |
-12.1 |
恩顧庇護関係
との相関 |
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-0.70 |
-0.65 |
-0.81 |
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出所 |
Herbert Kitschelt and Steven I. Wilkinson (eds.), Patrons, Clients, and Politics: Patterns of Democratic Accountability and Political Corruption. Cambridge: Cambridge University Press, 2007, p.307, Table 13.3. |
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政治は誰のものか
冷戦の終焉によってイデオロギー対立が弱まったことは、多くの政党を同質化させた。それにより政権に参画できる政党は増えたが、皮肉にも有権者にとっての選択の幅は縮小した。カッツとメイアはこれを政党のカルテル化というが、それは社会に根を下ろした政党の衰退でもある。党内有力者を押さえて一般支持者からの直接の支持を取り付ける新しいタイプのリーダーは一面では民主的であるが、他面では白紙委任的な権力者に近づく。
政治家は地元組織や大衆組織にかつての動員力を期待できないため、国家やメディアを積極的に利用・操作する。「小さな政府」の時代にあって、公共部門の量的拡大を推し進める路線はとられないが、経済専門家や官僚と協働して、政策プログラムの「パッケージ」を上から国民に提示する。
これを「新プログラム政党」ともいう。それらが造り出す「デモクラシー」と、ポスト・デモクラシーとの境目は明らかでない。政治家が国民から「浮いている(アウト・オブ・タッチ)」という指摘は日本だけのものではない。(日本の二世、三世議員がその極端な例であるが)政治家はもはや社会から選ばれる「代表」というより、自分たちを再生産する「政治(ポリティカル)階級(・クラス)」となる。
恩顧庇護のような「保険」がきかないために、「政治階級」は、砂上の楼閣のような権力を手にしているといえなくもない。その権力は選挙結果や世論によって、以前より容易に増減する。各党の得票の変動(ヴォラティリティ)は、今後ひき続き大きく振幅するであろう。有権者は、経済的上昇、雇用の確保、税負担の軽減、環境保護、アイデンティティの依り所、伝統的束縛からの自由など、必ずしも一貫性のない多様な要望をもっている。砂のような有権者の一人ひとりは意志をもった主体である。それらがどの方向に動くかは前もって計算できない。
「レジーム」の政治
これに対して、政治家が新しい「レジーム」を唱えることは、ある種の防衛戦略である。政治を動かす手段の総体を、権力資源と呼ぶことがある。権力資源は、利益団体や労働組合の組織力のようなものとしてイメージされやすいが、それだけではない。むしろ基軸となる制度・政策を制定することによって、その社会の諸活動における優先順位や力関係を長期的に左右することができる。「レジーム」は、具体的に諸制度を変えるだけでなく、政治の権力資源ともなるのである。
戦後スウェーデンで導入された労働者と中産階級の両階層のニーズを満たす普遍主義的な社会保障制度は、社会民主主義への強い支持を生み、失業保険の運営を組合にゆだねる制度は今も高い組織率を維持させている。北欧でも大衆政党のような組織的な資源は弱まり、政権交代は頻繁化しているのだが、それでも公的福祉国家への信頼度は高い。日本で注目された90年代スウェーデンにおける年金制度改革の成功は、かの国における政党・官僚の指導力によるだけではなく、その信頼度の低下を許さない、社会の歴史的選択があったといえよう。
現代スウェーデン人はきわめて個人主義化した価値観をもっているが、彼らは同時に共同負担意識を持ち続けている。このことをロートステインは、「連帯個人主義」の道と呼んでいる。日本では90年代末に社会保障や労働市場の改革が着手されたが、井戸正伸のいう「非応答的な国家」と「従順な社会」という歴史的な道の上で、政策決定者は正規労働者と経営者の連合を守ることに全力をあげ、女性の正規労働からの排除を許したまま、民間の派遣労働を自由化したのだった(「拒否権プレーヤーと労働市場改革−1990年代におけるイタリア、日本、アメリカ」、眞柄秀子・井戸正伸編『拒否権プレーヤーと政策転換』)。
普遍主義的福祉国家の「レジーム」を選択した社会は、それを正統化しつつ改革していくであろう。また隣人なきナショナリズムに対して、EUのようなインターナショナリズムの「レジーム」にコミットした社会は、可能な限りそれを生かす外交を優先するであろう。逆にそのような「レジーム」を歴史的に経験しなければ、「小さな政府」や、「国益」の呪縛を抜け出しにくい。
注意しなければならないのは、社会の優先順位を左右する「レジーム」が、あたかも一指導者の「ビジョン」によって上から与えられるように考えてはならない、ということである。安倍首相が2007年1月の施政方針演説で脱却をうたった「戦後レジーム」には、「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的枠組みの多く」があげられている。しかし、これらのものは明らかに、「憲法を頂点」に一元的に成立したものではなかった。むしろこれらを一括して「レジーム」と名指しすることは、「美しい国」というタイトルで一元化される「レジーム」の上からの制定が意図されていることの裏返しにほかならないのではないか。
その一元性は、一言でいえば、「ナショナル・ネオリベラリズム」である。ところが、一元的な「ビジョン」は実際に整合性をもっているとは限らない。恩顧庇護政治の衰退とネオオリベラリズムで信頼のゆらいだ公共問題への責任を、ナショナリズムあるいは郷土アイデンティティで補填することはできないだろう。地球環境問題では、企業の「自主行動計画」を超えて産業界に実効的に責任を分担させる政策のないまま、温暖化防止の指導国となることを謳っても、結果はついてこない(岡田幹治「「美しい星50」徹底批判――日本経団連の主張を丸呑みした安倍内閣の総合戦略」『世界』2007年9月号)。「私」の一貫性は分かりやすいが、将来に対する責任倫理、真のアカウンタビリティ(答責)の代用品にはならない。
政治の間隙から「インプット・デモクラシー」へ
日本の政治は「改革」のための権力一元化に向かってきた。これまでの政治制度論議において参議院は「盲腸」といわれ、それが郵政民営化法案をめぐって叛旗を翻したときには、小泉首相の衆院解散という決断により無力化された。今後も野党が拒否権を多発するならば、「抵抗勢力」として再び反発を買うかもしれない。今回有権者が両院の与党絶対多数を阻止したことは、政治の一元化を「一時停止」する間隙をつくったといえる。だがそれは、既成の政党の「パッケージ」のシェア競争の期間にとどまるのか。それとも間隙をつく政治が議会内外で生まれ、政党と有権者、市場とコミュニティ、年長世代とこれからの世代の関係自体を変えていくのか。
人類の国家・社会の発展を壮大な視点でとらえたマイケル・マンの『ソーシャル・パワー』は、「一元的な社会的全体性」を造り出そうとする企てを疑うところから出発している。その視点は、のちの『論理なき帝国』(岡本至訳)においては、経済、政治、そしてイデオロギーの力のともなわない軍事中心主義の「覇権」への批判となった。その代わりに、この歴史社会学者は、原動力としての「人間」という視点に立ち戻る。
「しかしわれわれはここで、本来の原動力のことを思い起こさなくてはならない。人間社会の駆動力は制度化などにはない。変化してやまぬ人間の衝動が拡大包括的な、あるいは内向集中的な〈力〉の関係を発生させ、そこから歴史が生まれるのだ。これらのネットワークは制度化よりも、人間の目標達成と直接の関係をもっている。目標を追求するなかで、人間はこうしたネットワークをさらに発展させ、既存の制度化のレヴェルを越えてゆく。これは既存の制度に対する真っ向からのチャレンジとして起こることもあれば、既存の制度の「すき間」や辺縁で意図せず「間隙をついて」起こり、新しい関係や制度を創造して旧来の制度に予期せぬ結果をもたらすこともあるのだ」(森本醇・君塚直隆訳『ソーシャル・パワー−社会的な〈力〉の世界歴史J』、20頁)。
マンのいう、「間隙をついて」起こる新しい関係や制度とは、どのようなものなのだろう。それは変化してやまぬ「人間」を原動力として投入(インプット)しようとする試みといってよいだろう。言い換えれば、経済力、軍事力、組織力、イデオロギーの力などに代位されず、さまざまな地域、世代の個々人を政治に接合する「すき間」をつくる実践的想像力のわざである(それは、「運動論」とも「制度論」とも異なる)。
福祉国家スウェーデンでも、80年代からいじめが深刻な問題となっていた。95年に子どもオンブズマンがいじめ対策の統一機関とされると、オンブズマンはいじめに最も直面している年齢である13歳児5万人へのアンケート調査を実施した。このアンケートではいじめや児童の権利に関する基礎情報が提供された上で、いじめをストップするには何が必要か考え、あなたのアイディアを出してください、と生徒に問いかけ、「子どもオンブズマンは、あなた方のアイディアや意見をきちんとまとめ、各関係者に必ず伝えます」と結ばれていた。さらにスウェーデンでは、子供に向かって下に開かれた動きとして、「学校デモクラシー」の動きが広がった。ニイボング基礎学校の場合、二人の教師とソーシャルワーカーが始めた「いじめ対策委員会」が、最初は慎重であった生徒の参加を徐々に促し、議長、事務局長を生徒に任せるようになったという。その代わり、いじめについて学校から親には連絡しない。親はいじめ対策班を信頼することが求められる。親が学校を選ぶ「消費者デモクラシー」とは違うモデルがここには見られる(高橋たか子『福祉先進国スウェーデンのいじめ対策』)。
日本では北海道のニセコ町において、94年以降独自の情報公開、住民とのコミュニケーションが断行された。農村部では恩顧関係や前例主義の行政が珍しくなかったが、同町は従来「誰が読んでも分からない」といわれていた予算の説明書を全戸に配布した。「まちづくり町民講座」は、無難な講習会でも、行政の政策プランの説明の場でもなく、これからの施策を老若男女の町民、事業者、町職員達が白紙から論じ合う予測不能の討議の場となったという。また同町の自治基本条約には未成年の参加の権利が明記されている。小・中学生による「子ども議会」の質疑応答は、町の部・課長にとって義務であるばかりでなく、コミュニケーション力を試される場でもある。
いうまでもなくこれらのエピソードは、内外の一部の例をあげたにすぎない。またクラウチのいうように、政党は必要ない、というシナリオはありえない。クラウチは政党が企業やロビー団体、あるいは単一争点運動などと独立して役割を果たすことを求めている。もはや政党だけが政治やイデオロギーの力をもつことはないであろうが、政策プログラムの視野の広さ、バランス、アカウンタビリティを競うことは、議会と政党というアリーナによってなされるべきである。
ただ言えることは、上からの「ビジョン」ではなく、「インプット・デモクラシー」が歴史をつくりだすことが、デモクラシーを現在(いま)とするために健全ではないだろうか、ということである。
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